ワイドナショーの録画を部分的に観たのだが、「なぜか消えない芸能人」をアンケートでランキングで紹介しているコーナーで松本人志が「自分はすごいとか才能があると思い込んでる奴、錯覚してる奴が強いのかもしれない。その思い込みがいつのまにか現実になったり、その思い込みと実力の「差額」を周りは面白がったりするのではないか」というようなことを言っていて、なるほどな、と思った。ちなみにそのランキングには出川哲朗や狩野英孝が入っていた。昔(20年くらい前)テレビのインタビュー(ソリトン?(今の「トップランナー」の枠))で石野卓球が「かっこよさとは何ですか?」という質問に対して「身の程を知ること」答えていたが、これは「かっこいいことは何てかっこわるいんだろう」とか「きれいはきたない、きたないはきれい」、あるいは「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という「定理」、「思想」、から見るのであれば、石野卓球が「そちら側」というか「こちら側」の人間だとするならば、「かんちがいしろよ!」というメッセージと取れなくもない。確かに現実の様々な局面において身の程を知ること、等身大の自分に自覚的であることは大切なことであろう。無謀なばかりでは人生あっという間に破滅してしまうかもしれない。しかし「物分かりのいい大人」ばかりでは世の中面白くないかもしれないし、自分自身の人生としても時には「思い込み」「勘違い」「錯覚」で突っ走る時があってもいいのではないか。バカみたいに夢を追いかけたその先にいつの間にか現実になったていた。という事もあるだろうし、結果がどうであろうと夢を追いかけていたその時間はまさに「夢中」、「夢の中」であり、その瞳は信じられないくらい輝いていたことだろう。「ファン」や「取り巻き」「プロ志望の実力不足の素人」を「ワナビー」と呼び小馬鹿にする風潮が一部にあるようだが、誰もは始めは「憧れ」から始まるのではないか。その「憧れ」を否定したら何も始まらないし、そもそも大切なお客さんであり、仲間であり同志であるともいえる存在だ。きゃりーぱみゅぱみゅの「もんだいガール」の歌詞ではないが、とびぬけた存在やとびぬけた存在になろうとする存在の足をひっぱってもしょうがないだろう。ゆきりんやさしこも「ちょっとかわいいただのアイドルファン」だったのだろう。それがここまで来たのだ。当時のゆきりんやさしこに「己を知れ!」とか「現実を見ろ!」とか説教してもしょうがないだろう。しょうがないというかもはや犯罪的ですらある。確かに「アイドルにならなかったゆきりんやさしこの人生」もそれはそれで別の素晴らしさがあったかもしれないし優劣はつけられないかもしれない。しかし今のゆきりんやさしこ、彼女たちにとてつもない喜びをもらっている大勢のファンのことを考えると「あの時は不確かな未来だった今の現実」がとてつもなく尊く大切に思われるのだ。この夢の始まりには周囲から失笑されるような「勘違い」や「思い込み」があったのかもしれない。しかし「錯覚に忠実」であったことが今現在の「夢のような現実」を実現させているのだ。誰も人の夢を笑ってはいけないし、自分の夢を笑ってはいけないのではないだろうか。
Eテレで再放送の100分de名著スペシャルを観た。とても面白かった。「日本人とは何か?」というテーマで各々が過去の名著を持ちよって語るのだ。余りにも濃すぎて番組の概略はよしておくが、河合隼雄さんが日本神話から取り出した「中空構造」や「無」や「空」「うつろ」などが日本人の本質的な無意識としてあるようである。木のうろの様に空っぽなのだがその中では極彩色のバイブレーションがう渦巻いている。変幻自在、柔軟な、神出鬼没、無節操、無責任な国民性。責任者を追究してもそこには誰もいない。不気味な空気だけが渦巻いて人々を動かしているのだ。白か黒か、善か悪か、の二元論ではない中空構造を含んだ三項構造。その「空」が無意識として日本人を動かしているのだ。その感覚は欧米人にはないものだが鈴木大拙の禅の紹介がアメリカのヒッピームーブメントに大きな影響を与えたのだ。アレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズ、ビートルズやスティーブ・ジョブズに。自己と対象が未分化な主客のない世界に魅せられたのだ。日本人自身も気づかない日本人の精神性の核心に魅せられたのである。停滞気味の日本文化は芸術でも哲学でも技術でもここで一発欧米に、世界に、日本人の素晴らしい精神性の結晶である新しい何かをぶちこまなければならないだろう。クールジャパン的なアニメやマンガがすでにそれなのかもしれないが。この文のタイトルにした「デビルマンとアイアムアヒーロー」というのはここの日本人の「中空構造」というものを現しているのではないかと思ったのだ。日本人は歴史的に自分は空っぽで中国や欧米の文化、文明を否定、拒絶、排除することなくとりこみ、その空っぽの内部で異様な進化、発展、変形をさせてきた。そしてその力をもってして「外敵」と戦うというスタイルをとってきたのだ。これは「デビルマン」「アイアムアヒーロー」あるいは「寄生獣」あるいは「仮面ライダー」もしかしたら「AKIRA」とも共通する構造なのかもしてない。「敵の圧倒的な力」にまず半分支配される。脳や精神の一部を除いて身体が占領、侵略、支配、奪われる、乗っ取られる。しかしそこからその敵からもらったその力を使って反抗の戦いを始めるのだ。脳意外ショッカーに改造された仮面ライダがショッカー基地から逃げ出してショッカーと戦う。悪魔の力を身につけた悪魔と戦うデビルマン。アイアムアヒーローも何だかこれからそうなりそうな雰囲気である。「AKIRA」はどうなのか?「AKIRA」はそもそも何と何が何と戦っていたのか。何か宇宙的な力。生命の、存在の、根源的な力、その力を発現させる存在とそれを巡る戦い。そしてその戦いを経て一つ上のステージへと行く人類。そんなイメージだろうか。その力を発現させるのも進化する人類も「かしこまった大人」ではなく「こども」であった。これがまた世界の中の日本人とかネオテニー的なものとかを喚起させて面白いのであろう。「日本人はこどもである」というのもあるかもしれない。それは「オタク論」や楳図かずおの「14歳」問題にも繋がることだろう。
今日めざましテレビの名言コーナーで、マイケル・ジョーダンの「私は失敗を受け入れることはできる しかし挑戦しないことは受け入れられない」という言葉が紹介されていた。「やって後悔するのはいいけどやらないで後悔するのは嫌だ」という言葉と同じような意味だろう。なるほどと思う。それで連想するのはNMB48の『高嶺の林檎』の歌詞である。素晴らしい曲だと思うし大好きなのだが気になる所がある。「結果を出せないこととはチャレンジするよりダメなことか?」という歌詞の部分である。この曲はノットイエットの『ヒリヒリの花』と同じく「無理目の夢を追いかけてみろ!」というようなメッセージがこめられていると思うのだが、「結果を出せないこととはチャレンジするよりダメなことか?」というのは意味が通らないように思うのだ。聞き流せばそれで済むかん感じでもあるのであるが、どうも気になる。「結果が出せないこと」とは「失敗すること」である。「チャレンジすること」は「成功する可能性」もあるが「失敗する可能性」もある、リスクのある、危険な行為、一種の賭けである。結果は甘いかもしれないし苦いかもしれない。「結果を出せないこととはチャレンジするよりダメなことか?」とは「失敗することは挑戦することより劣るのか?」という意味であり、「失敗することはは成功することより劣るのか?」は当たり前で、「失敗することは、失敗か成功かという結果が判明する以前の挑戦している段階より劣るのか?」という意味ならば、それはそうかもしれないという感じであるが、「失敗することは挑戦することより劣るのか?」というのはいったいぜんたいどういう意味なのか?これははっきり言って「失敗することは挑戦しないことよりダメなことか?」の間違いなのではなかろうか?つまり「結果を出せないこととはチャレンジしないよりダメなことか?」というのが「正しい」歌詞なのではなかろうか。毎度秋元康さんさんの歌詞に度肝を抜かれている者として、決して揚げ足をとるつもりはないのだが指摘しておきたかったのだ。しかし私め「わけのわからないしょう小説」をものくるおしく書いている者として時折わざと誤字のような造語や意味の通らない飛躍、断絶、「つながらないつながり」をねじ込みたい気持ちもよくわかる。というより私の小説はほぼすべてそれである。まあ私の小説のことはおいておいて、秋元康氏の歌詞だが、私にはくみとれない深さや結果楽曲全体にもたらす効果や狙いがあるのかもしれない。「なんとなく意味はわかる」し、「特に問題はない」かもしれない。歌詞の中の主人公の興奮や混乱、熱意や決意が伝わってくるといえるかもしれないし、このような違和感がフックになっているのかもしれない。「落書きするなという落書き」や「この命題は偽である」という命題や「私はうそつきである」という言明など言葉の奇妙な矛盾に引き込まれこだわってしまうということがある。聞き流せばそれで済んでしまうことなのに……「高嶺の林檎現象」もそのようなものなのであろうか?