今日めざましテレビの名言コーナーで、マイケル・ジョーダンの「私は失敗を受け入れることはできる しかし挑戦しないことは受け入れられない」という言葉が紹介されていた。「やって後悔するのはいいけどやらないで後悔するのは嫌だ」という言葉と同じような意味だろう。なるほどと思う。それで連想するのはNMB48の『高嶺の林檎』の歌詞である。素晴らしい曲だと思うし大好きなのだが気になる所がある。「結果を出せないこととはチャレンジするよりダメなことか?」という歌詞の部分である。この曲はノットイエットの『ヒリヒリの花』と同じく「無理目の夢を追いかけてみろ!」というようなメッセージがこめられていると思うのだが、「結果を出せないこととはチャレンジするよりダメなことか?」というのは意味が通らないように思うのだ。聞き流せばそれで済むかん感じでもあるのであるが、どうも気になる。「結果が出せないこと」とは「失敗すること」である。「チャレンジすること」は「成功する可能性」もあるが「失敗する可能性」もある、リスクのある、危険な行為、一種の賭けである。結果は甘いかもしれないし苦いかもしれない。「結果を出せないこととはチャレンジするよりダメなことか?」とは「失敗することは挑戦することより劣るのか?」という意味であり、「失敗することはは成功することより劣るのか?」は当たり前で、「失敗することは、失敗か成功かという結果が判明する以前の挑戦している段階より劣るのか?」という意味ならば、それはそうかもしれないという感じであるが、「失敗することは挑戦することより劣るのか?」というのはいったいぜんたいどういう意味なのか?これははっきり言って「失敗することは挑戦しないことよりダメなことか?」の間違いなのではなかろうか?つまり「結果を出せないこととはチャレンジしないよりダメなことか?」というのが「正しい」歌詞なのではなかろうか。毎度秋元康さんさんの歌詞に度肝を抜かれている者として、決して揚げ足をとるつもりはないのだが指摘しておきたかったのだ。しかし私め「わけのわからないしょう小説」をものくるおしく書いている者として時折わざと誤字のような造語や意味の通らない飛躍、断絶、「つながらないつながり」をねじ込みたい気持ちもよくわかる。というより私の小説はほぼすべてそれである。まあ私の小説のことはおいておいて、秋元康氏の歌詞だが、私にはくみとれない深さや結果楽曲全体にもたらす効果や狙いがあるのかもしれない。「なんとなく意味はわかる」し、「特に問題はない」かもしれない。歌詞の中の主人公の興奮や混乱、熱意や決意が伝わってくるといえるかもしれないし、このような違和感がフックになっているのかもしれない。「落書きするなという落書き」や「この命題は偽である」という命題や「私はうそつきである」という言明など言葉の奇妙な矛盾に引き込まれこだわってしまうということがある。聞き流せばそれで済んでしまうことなのに……「高嶺の林檎現象」もそのようなものなのであろうか?