権力とは何だろうか。それはしばしばネガティブな意味で使われる。国家権力や校則や社会常識、通念、暗黙のルールなど、自由な発想や行動を拘束する打破すべき抵抗すべきものとして語られることも多い。監獄や学校、管理社会などでの息苦しさや理不尽にも思える強制や強要、監視や処罰、洗脳や詐欺にも思える教育や訓練や刷り込みなどである。改めて、権力とは何か。我々は歴史の悪戦苦闘の結果としてある程度整えられた環境に誕生する。勿論、国や家庭環境、持って生まれた身体的条件や資質、能力などの違いはあるが。その蓄積の中に生まれ落ちる。そこには親や大人がいる。その親や大人は何かを食べさせようとし、何かを食べさせないようにし、ここから先は行っちゃ駄目と言い、言葉を教え、礼儀を教えるだろう。人類の歴史、先人の叡知、その上に構築された整えられた環境の中へ子供を送り出し、善き人間へと育つことを願うだろう。それは世話であり見守りであり教育であるだろう。フグに毒があることも毒キノコの知識も多くの犠牲の上に成り立っているのだろう。そして成長した人間は世界をより良くしたいと思ったり自分の人生を充実させたいと思ったり夢や情熱に胸を熱くしたり何かに怒ったり絶望したり泣いたり笑ったりするのだろう。改めて権力とは何か。親や大人が子供に何かを教えたり禁止したりするのも権力の行使であり管理であろう。それは別に憎くてやっているわけではないだろう。しかしその「教育」が仕事になり習慣化していささかうんざりもすることになったとき形骸化し、時には心も失われるだろう。そして子供は何故こんな事を?と疑問を感じ、反抗もし抵抗もするだろう。しかしいつか時がたち、その教育に意味があったことを知ることもあるだろう。しかしいつまでたっても疑問が消えず、疑念が晴れず、憎しみや怒りや批判精神が消えないこともあるだろう。そしてその人間は歴史や文化や社会や宗教を学び、社会変革へと乗り出すかもしれない。それは何も過激な革命家などではなくとも、日常生活の微調整といった局面でも表れる改良の意識でもあるだろう。改めて権力とは何か。権力が圧倒的な力として、異様な暴力や殺戮として現れることはあるだろう。それは戦争や虐殺であろう。戦争が互いの正義のぶつかり合いであるとすれば互いに互いが処罰すべき殲滅すべき排除すべき害毒、病根、はみだし者と見えるのだろう。互いが互いを悪魔と見なしているのだ。健全な社会、健全な共同体には不要なゴミ、異物と見なしているのだ。権力と権力のぶつかり合いである。これは恐ろしい。まさに権力闘争である。始まりが個人であろうと狂人であろうと仲間を集めて権力を奪取すれば国になるだろう。そして国家権力を持つだろう。波瀾万丈、空前絶後の地球の歴史、人類の歴史、血と汗と涙にまみれた過ちに満ちたその歴史の上に構築された社会を無条件に肯定することは出来ないだろう。しかしその社会、その世界は叡知と努力、血と汗と愛の結晶でもあるのだ。社会を良くしたい。そのためには社会でも神でもぶっ壊すし徹底的に疑う。しかしそれが人類の9割を死滅させるようなプランならあまりにもデスノート的でありスターリン的でありヒトラー的であるだろう。それは避けたい。ではこのままでいいのか。そういうわけでもないだろう。改めて、権力とは何か?
管理社会の分析を初めにしたのはバロウズだそうだ。ドゥルーズが『記号と事件』でネグリに言っていたらしい。「現代社会」以前の「近代社会」は「規律型権力」だったらしい。これはフーコーの考え方らしい。監獄、学校、病院、工場などの「権力システム」。一点から皆を監視したり、ふさわしい行動や身振りを教え込んだり、人口の調整に関わるらしい。それに対して「管理社会」とは何だろうか?「敵が見えにくい世の中になった」とはよく言われる話である。昔は「あいつを殺せば我々は自由だ」というような、明確な敵が存在していた、見えていたような気がしないでもない。しかし現代ではそのような「敵」は見出だし得ない、というのは実感としてもある。しかし何か我々は何かから不断に抑圧され奪われ規制され制限され束縛され不自由な状態に嵌め込まれているのではないか?という夢とも現実とも妄想ともつかぬような、しかし切実な感覚を持っているような気もしないではない。しかしあまりにもそのような漠然とした不安や不満や怒りをため込むと「病人」として「治療の対象」になってしまうのかもしれない。SFじみた悪夢的な「管理社会」に我々は既に足を踏み入れているのかもしれない。しかしそんな「疑問」も姿なき「管理社会」の「それは夢にすぎない」という甘いささやきによりあっという間に消えてしまうのだ。先月椹木野衣と会田誠のトークショーに行ったのだが、椹木野衣が「モダンとは未完成、永遠に完成せずに変化し続けて行くこと」というようなことを言っていた。「モダン」「モダニズム」とは美術や文学ではピカソやジョイス以降のことであろうか。先日東京MXテレビの西部ゼミナールを見ていたら西部すすむが「モダン」とは語源的には「モデル」「モード」であり、「大衆に支持される流行の形式」というような意味であり「近代」と訳すのは間違いというようなことを言っていた。「近代」とは何か。「現代」とは何か。「大衆消費社会」というものが20世紀初頭のアメリカで生まれた。というようなことも言っていただろうか。「大衆」の誕生、「マスメディア」の登場、「情報化社会」…。社会の変化につれて、なのか同時なのか前もってなのか、政治も経済も権力システムも変わる。そもそも「権力」や「支配」が悪いものなのかもわからない。もしかしたら「支配者」「被支配者」双方ともにその情況を望んでいるかもわからず、社会や関係の安定のために必要なのかもしれない。それなりに安定していた「階級社会」をぶっ壊したために錯乱的な無秩序状態に社会が陥るというのもありそうな話だ。しかし我々はユートピアを夢みる。先日ミュージックステーションでミスチルの『未完』を聴いた。大変感動したのだが、この曲も「支配からの脱出」や「自由」がテーマと言っていいだろう。我々を皆動物園の動物にみたて、その檻からの脱走を夢想するような、すすめるような、自由へと、外の世界へと誘惑するような歌。タイトルの『未完』は「成長し続けるモダニズム」を連想させるし、「動物園」は「規律社会」「管理社会」のことだろう。歌詞の中には「目をギラつかせた資本主義者の巣窟」という言葉も出てくる。いつの時代も支配者はいて、それは「いい王様」だったり「悪い王様」だったりするのだろうが、その「王様を頂く構造」を批判して社会を変革して進んで来たのが「歴史」だろう。過去に様々な形の「王様」「支配者」「支配の構造」が打ち倒されてきた。しかしそれはまるで陰湿化し潜伏するいじめのように姿をかえて存続する。そして今現在その「支配者」は「正体不明」「住所不明」「名前不明」の怪物になった。しかしその怪物は「管理社会」として今現在目の前にある。昨日ファスビンダー映画祭で『エフィー・ブリースト』を観た。「ある女の一生」のような話だが、「支配」「被支配」「自由」がテーマとも言える。映画内の言葉で「教育者」「教化」という言葉が、ネガティヴな意味で使われたのだが印象に残っている。『ペトラ・フォン カントの苦い涙』や『マルタ』にも通じる話だと思う。
以前このブログでこの歌詞の「気づかない僕だけの花でいい」という部分を「主人公の錯乱した心情の表現」というふうに分析したと思うが、改めて考えてみると「気づかない」の前にある「みんなは」という言葉が省略されているのではないか、と考えた。つまり本来の文章としては「みんなは気づかない、僕だけの花でいい」ではないか。そこで思った。この「花」というのはその「好きな女の子」の事のようでもあるが、つまりその花の美しさを理解しているのは自分だけ、という気持ち。というようなふうにも取れるが、「自分自身の恋心」の事かもしれない。自分だけのみんなは気付かない恋心。それが「花」。そういう意味かもしれない。その省略が省略だとして、それが何らかの「効果」を狙ったものなのか(スピード感など)、言葉数の都合なのかわからないが、「省略」ということだとタイトルの『希望的リフレイン』も省略があるように思える。このタイトル、少し不自然ではないか?希望的がリフレインなのか、リフレインが希望的なのか、「希望的」というのを「前向きな気持ち」と変えてみると、前向きな気持ちがリフレインする。とか、リフレインの内容が前向きな気持ち、となる。意味としてはそれでいいと思うが、『希望的リフレイン』で省略されているのは「観測」だろう。『希望的観測リフレイン』『希望的観測のリフレイン』これが「省略しないバージョン」なのではなかろうか。しかしやはりこれではいささか冗長である。説明的すぎる。『希望的リフレイン』だと、意味を考えると、えっ?何?という感じだが、やはりかっこいい。それとこれは「リフレインの質」が「希望的」ということかもしれない。「デフレスパイラル」とか「どんどん悪い方へ考える」とか「負の連鎖」とかいうが、その反対。この曲はよく聞くと「前向きな失恋ソング」にも思える。「始まる前に終わっている」そんな切ない初恋の歌。でも希望が、喜びが、永遠に反復し続ける。僕の心の中で。『希望的リフレイン』。