管理社会の分析を初めにしたのはバロウズだそうだ。ドゥルーズが『記号と事件』でネグリに言っていたらしい。「現代社会」以前の「近代社会」は「規律型権力」だったらしい。これはフーコーの考え方らしい。監獄、学校、病院、工場などの「権力システム」。一点から皆を監視したり、ふさわしい行動や身振りを教え込んだり、人口の調整に関わるらしい。それに対して「管理社会」とは何だろうか?「敵が見えにくい世の中になった」とはよく言われる話である。昔は「あいつを殺せば我々は自由だ」というような、明確な敵が存在していた、見えていたような気がしないでもない。しかし現代ではそのような「敵」は見出だし得ない、というのは実感としてもある。しかし何か我々は何かから不断に抑圧され奪われ規制され制限され束縛され不自由な状態に嵌め込まれているのではないか?という夢とも現実とも妄想ともつかぬような、しかし切実な感覚を持っているような気もしないではない。しかしあまりにもそのような漠然とした不安や不満や怒りをため込むと「病人」として「治療の対象」になってしまうのかもしれない。SFじみた悪夢的な「管理社会」に我々は既に足を踏み入れているのかもしれない。しかしそんな「疑問」も姿なき「管理社会」の「それは夢にすぎない」という甘いささやきによりあっという間に消えてしまうのだ。先月椹木野衣と会田誠のトークショーに行ったのだが、椹木野衣が「モダンとは未完成、永遠に完成せずに変化し続けて行くこと」というようなことを言っていた。「モダン」「モダニズム」とは美術や文学ではピカソやジョイス以降のことであろうか。先日東京MXテレビの西部ゼミナールを見ていたら西部すすむが「モダン」とは語源的には「モデル」「モード」であり、「大衆に支持される流行の形式」というような意味であり「近代」と訳すのは間違いというようなことを言っていた。「近代」とは何か。「現代」とは何か。「大衆消費社会」というものが20世紀初頭のアメリカで生まれた。というようなことも言っていただろうか。「大衆」の誕生、「マスメディア」の登場、「情報化社会」…。社会の変化につれて、なのか同時なのか前もってなのか、政治も経済も権力システムも変わる。そもそも「権力」や「支配」が悪いものなのかもわからない。もしかしたら「支配者」「被支配者」双方ともにその情況を望んでいるかもわからず、社会や関係の安定のために必要なのかもしれない。それなりに安定していた「階級社会」をぶっ壊したために錯乱的な無秩序状態に社会が陥るというのもありそうな話だ。しかし我々はユートピアを夢みる。先日ミュージックステーションでミスチルの『未完』を聴いた。大変感動したのだが、この曲も「支配からの脱出」や「自由」がテーマと言っていいだろう。我々を皆動物園の動物にみたて、その檻からの脱走を夢想するような、すすめるような、自由へと、外の世界へと誘惑するような歌。タイトルの『未完』は「成長し続けるモダニズム」を連想させるし、「動物園」は「規律社会」「管理社会」のことだろう。歌詞の中には「目をギラつかせた資本主義者の巣窟」という言葉も出てくる。いつの時代も支配者はいて、それは「いい王様」だったり「悪い王様」だったりするのだろうが、その「王様を頂く構造」を批判して社会を変革して進んで来たのが「歴史」だろう。過去に様々な形の「王様」「支配者」「支配の構造」が打ち倒されてきた。しかしそれはまるで陰湿化し潜伏するいじめのように姿をかえて存続する。そして今現在その「支配者」は「正体不明」「住所不明」「名前不明」の怪物になった。しかしその怪物は「管理社会」として今現在目の前にある。昨日ファスビンダー映画祭で『エフィー・ブリースト』を観た。「ある女の一生」のような話だが、「支配」「被支配」「自由」がテーマとも言える。映画内の言葉で「教育者」「教化」という言葉が、ネガティヴな意味で使われたのだが印象に残っている。『ペトラ・フォン カントの苦い涙』や『マルタ』にも通じる話だと思う。