日テレの深夜でカイジのアニメがやっている。原作のマンガは5巻ぐらいまで読んだっけ。以前も深夜にアニメがやっていた気がする。その時はティッシュの箱を使ったくじ引きの話だったっけ。今回は地下チンチロだお金が「ペリカ」という単位の異常世界。しかし我々の生活する現実の社会をリアルにえぐっているようにも思える。弱肉強食、生き馬の目を抜く容赦ない世界。限界を超えてむしり取られ追い込まれる。強者勝者は力を無限に高めることに執心し、構造に疑問を抱くことはない。情け容赦なく奪いつづける。弱者は無限に負け続け地を這い地底をうごめき続ける。生かさず殺さずの苛酷な生存が富める者たちの豊かな生活を支え続けるのだ。人間はいつ解放されたのか。人間はいつ自由になったのか。人間はいつ理想の社会を作り上げたのか。なにもかもこれからじゃないのか。余りにも不完全すぎるこの社会への異議申し立て。徹底的な反抗。徹底的な破壊活動。絶対的な勝利のために。永遠の勝利のために、異様な戦闘を、異様極まる戦闘を今開始せねばならない。何十年何百年、いや永久に破壊否定し続けねばならない。怒り怨念破壊衝動がおさまることは決してない。永久的な攻撃の持続により敵の息の根を止めあらゆる宇宙の存在の記憶からも完璧に消去し尽くすのである。もうない。もう敵はいない。永久に敵は現れることはない。安心しろ。
いい思い出、素晴らしい経験の繰り返し、というものではない観点からも考えたい。例えば最悪の経験、とるに足らない経験も回帰する。過去にも未来にもその一瞬がその瞬間の感覚がまったく変わらずそのまま回帰する。歴史的事件というよりも個人的な一瞬の感覚といった感じで考える。それが一回ということと、それが無数であることの違い。桜が咲く。桜が散る。雲が流れる。雨が降る。そのちりゆく花びら、その目の前を通過する雨粒、その雲、その雲を見ているその瞬間の私。は通常「一回」と考えられる。しかしそれらが気の遠くなるような遠い過去だろうが遠い未来の彼方だろうが「まったく同じものが無限回」あるとしたら。それを想像した時の奇妙な戦慄のようなもの。合わせ鏡で無限に増殖する鏡と鏡像のような。それはどれも本物でありどれも偽物であるような。無限に増殖した実体はもはや構造的な厚みを欠いたぺらぺらの紙、写真、鏡像、幻影のようなものだ。それは決して中心や頂点によってまとめられる統一体に属さない。先天的バラバラ人間なのだ。それは決定的な意味で法則に属していない。時間にも空間にも精神にも意識にも。超人の生とはそんな世界と交感するものではないか。
ニーチェの番組がこの前までNHKでやっていた。その中で「永遠回帰」についても取り上げていた。ニーチェの本は通して読んだことはないがずっと関心はあった。永遠回帰はこの一瞬(例えばこの月夜、あの蜘蛛、あの木の枝の揺れなど)が寸分違わず完璧に過去無限回繰り返され未来に渡っても無限回繰り返されるという認識のことであるが、ニーチェはエネルギー保存の法則から着想したという。この思想をひらめいた時かみなりに打たれたような気がしたそうだ。例えばサイコロを十回ふってみる。その出目の順序はサイコロを何万回もふれば何度も繰り返すだろう。千個のサイコロを千回ふったとしてそのサイコロ各々の出目の順序も無限回サイコロをふれば無限回繰り返されるだろう。過去の未来のどこかの地点で。ニーチェは失恋に苦しんだそうだ。しかし愛した女性との長い散歩はニーチェにとって最高の経験だった。失われた恋も恋人もその瞬間は過去に無限回存在し未来に無限回存在する。その喜びの経験は無限回回帰する。それだけでそれならば人生のすべては宇宙のすべては肯定できる。これでいいのだと。我が人生よ、この宇宙よ、これでよい。と。そのような心境だったのだろうか。「苦しみよりも喜びはより深い」という言葉もあったようだ。番組では中島みゆきの『時代』に永遠回帰がたとえられていた。別れた恋人も倒れた旅人もいつか再び出会い歩き出す。寸分違わず完璧にそのままが何度でも回帰する。