5月14日15日、東京ビッグサイトでデザインフェスタがあります。このイベントの存在を知ったのは2年前。2009年の9月だったろうか。高円寺のみじんこ洞というお店であったミニコミイベントで知り合った人のブログにデザインフェスタのことが書いてあった。デザインフェスタがやるのはそのブログで知った翌日。あわただしかったけどおもしろそうだから行った。そこで偶然懐かしい友人に再会したりした。GEISAIには行ったことがあった。2002年の3月頃だったろうか。その後2009年の3月だったろうか、行った。イベントで知り合った人と後日会ったりした。映像イベントのお知らせメールが来たりしたのだ。こういうイベントは予想外の出会いがあったりしておもしろい。今1900年前後のヨーロッパの芸術動向に興味を持ちいろいろ読んでいる。ダダとか。針生一郎さんという美術批評家の方のインタビューをネットで興味深く読んだのだがその針生さんの翻訳されたハンス・リヒター著『ダダ』が既に家にあった。本の存在はいつも意識していた。10~5年ぐらい前古書店で買ったものだ。45年前に出た本で値段は当時の定価が3600円だ。まだ全然読んでいなかった。本を開いてみたらハウス・リヒターのサインが入っていた。気付かなかった。これは貴重なものなのではないか。『ダダ』「ダダ」ダダ。2011年、ダダの熱狂、アバンギャルドの熱狂、そんなものの再来のようなものが日本や世界で再来することはあるだろうか。何か芸術的な何かの熱い波のようなものを待望する心境。そんなものがある。過ぎた時代のことでなし。絵は昔からちょいちょい描いていたが2、3年前から現在の作風に到達というか発見というかなり、今回の初参加となった。土曜日のみ。一階のG‐252作品のコピーを一枚100円で売る予定。絵は10作品。ブース名は『よじびる絵画館』。よろしくお願いします。
毎年の恒例行事のようになっている。去年ははずれたけど一昨年は明治大学でのメビウスと浦沢直樹の対談と重なりメビウスを観た。なかなか興味深い話だった。観客の中には荒木飛呂彦も永井豪もいた。下書き無しでいきなり描く線はいい線が描けるという話など。確かにメビウスの絵はおもしろい。影響を受けている大友克洋さんの絵もおもしろい。浦沢さんは大友さんの絵を知る前からメビウスの絵を知っていたようだった。メビウスの絵のおもしろさってなんだろう。マジックリアリズム的な。マジックリアリズムをよく知らないけど。写実的なんだけど凄く不思議な感じ。写実的なんだけどテンションが高くて不思議な印象を受ける。写真みたい、本物そっくり、という感じでもない。ひどく異様にくっきりしていて異様にテンションが高く、奇妙な印象を受ける。シュルレアリスム的SF的な要素も強い。岩が浮いていたりマグリットみたいだ。劇画タッチでも手塚治虫タッチでもない。非人間的な、機械的な印象。しかしごちゃごちゃしていて有機的にも見える。しかしその有機性は廃墟や人体模型の有機性だ。工場のパイプのような有機性だ。ベタベタした感じ、湿った感じではない。シュルレアリスムとは非現実ではなく強度の(強度の近視というような強度)現実だ、と巌谷國士さんも言っていたがメビウスの絵も「強度の現実」といった感じだ。余りに現実的過ぎて現実を踏み外してしまっている。それが見る者の快感を呼び起こす。人間以外の何かに自身が変身していく感覚。超人間、まさに超人である。
カイジの地下世界。鬼畜班長を葬っても第二第三の班長が現れることだろう。地上でモニターを見ていた黒崎を葬っても第二第三の黒崎が現れるだろう。いや、地上は黒崎の巣のようなものだ。しかし仮に地上のすべての葬っても新たに湧いて出てくるだろう。しかし人類に絶望したくはない。人類に可能性はあると思う。しかしそれはひどく狭く細く険しい道ではないのか。しかしその道に賭ける以外ないだろう。何よりもその道、その方向性を発見せねばならない。それが先決である無闇に反抗しても滅びるだけである。敵の顔貌を鮮明に描き出すこと。別の価値、別の意味、別の光、別の希望を模索し提示することだ。別の価値を作り出し、別の価値を別の生を生きることだ。それは目の前にあるものの見方を変えることなのか、今感じている生の感触、それを変えることなのか、社会を世界を変えるにしてもそのレベルを無視しては愚かな繰り返しにしかなるまい。どれだけ悪を消去しても消去したその手が新たな悪になるのだ。その循環を断ち切るためにはまったくの外部から新たな希望を導入せねばなるまい。その構造の外部。しかしその場所は今も目の前にあるそれ、そこ、なのである。