カイジの地下世界。鬼畜班長を葬っても第二第三の班長が現れることだろう。地上でモニターを見ていた黒崎を葬っても第二第三の黒崎が現れるだろう。いや、地上は黒崎の巣のようなものだ。しかし仮に地上のすべての葬っても新たに湧いて出てくるだろう。しかし人類に絶望したくはない。人類に可能性はあると思う。しかしそれはひどく狭く細く険しい道ではないのか。しかしその道に賭ける以外ないだろう。何よりもその道、その方向性を発見せねばならない。それが先決である無闇に反抗しても滅びるだけである。敵の顔貌を鮮明に描き出すこと。別の価値、別の意味、別の光、別の希望を模索し提示することだ。別の価値を作り出し、別の価値を別の生を生きることだ。それは目の前にあるものの見方を変えることなのか、今感じている生の感触、それを変えることなのか、社会を世界を変えるにしてもそのレベルを無視しては愚かな繰り返しにしかなるまい。どれだけ悪を消去しても消去したその手が新たな悪になるのだ。その循環を断ち切るためにはまったくの外部から新たな希望を導入せねばなるまい。その構造の外部。しかしその場所は今も目の前にあるそれ、そこ、なのである。