旨いけど体に悪いものがある。それを食べないことは自身の何らかの尺度に照らして、価値判断が行われて選択している。体に悪い、というのには死の影がある。死の予兆がある。不吉なものがある。体を損なうこと、健康を損なうことは死につながる。生存を欲している者にとっては避けたい事態である。快と不快である。死につながるのだが死に近付くのだが快、というのはありそうな話である。ジェットコースターでも登山でも危険である。格闘技でもギャンブルでも危険である。何かそういうスリルを求めるようなところが人間にはある。単に生存を求めるのではないところがある。もちろん生存に直結した快もあるだろう。食事や呼吸や排便などそうかもしれない。生存と死に快と不快が対応しているようだ。しかしそれがねじれている場合もありそうだ。破滅的なもの悪夢的なものの誘惑や自身の生命や財産を危機にさらしてみたい欲望のようなものだろうか。冒険や賭けにきわどく勝つことによって強い快感を得る。それも結果的には「生きた」とか「生きぬいた」という感覚を強く感じたいということなのだろうか。苛酷なサバイバルを生き抜いた果てに感じる生存の実感。そのようなものを感じさせてくれるものとしてギャンブルやゲームやスポーツや娯楽映画などがあるのだろうか。無難に生存を守り続けるような人生に人間は退屈してしまうようだ。もちろん安心安全な生存の保障を求め、安全圏から危機を欲するのだろうか、あくまでも虚構、ゲームとして。しかし人生自身、生存事態を危機に投入するような生きかたもあるだろう。それを選択する人もいそうである。その人は死にたいのだろうか。そうではなさそうだ。死にたくて危機に飛び込む人もいるかもしれないが。むしろ「より生きるため」のような気がする。より強く自身の生命の燃え上がりを感じる。生命の拡大を感じるために。そして快と不快である。旨いけど体に悪い、とは何か。死につながる。病気、不健康につながる。病気、不健康は不快である。よってその食べものを食べない。という場合それも快を選択しているということだ。目先の快ではなくすこし先の快不快を考えているのだ。すると快だが法律的道徳的にまずい場合はどうか。そこでその快を行わない場合、法律的な罰や自身の良心の呵責を怖れて行わないことを選択したといえる。するとそれは身体的には快だが少し先を考えると罰ややましさを感じることが不快だからそれを行わないことを選んだといえる。
与えられたルール。与えられた道具。自分の持つ能力やセンス。その場のひらめき、思いつき。その結果がどう出るか。成功か失敗か。幸か不幸か。吉か凶か。人間万事塞翁が馬とも言うが…とにかく選択により行為により結果が出る。そしてそれが積み重なる。不自由であるより自由であるほうが好ましいように思われる。選択肢が少ない、あるいは無い、よりも選択肢が多い、あるいは選択肢自体を作り出すほうが好ましいように思われる。するとそのような「選択肢のある場所」へ行くこと、「選択肢を作り出す能力」が重要であるように思われる。自分自身の欲望に世界観に合わせて。「蟹の自由」「エビの自由」「貝の自由」というものもあるだろう。あるいは一種の「処世術」として「欲望を変形する」「選択肢を切り捨てる」「選択肢を創造しない」「選択肢を無視する」ということもあるだろう。「酸っぱい葡萄」の話のように。「私はそれを求めてはいなかった」という物語の捏造。しかし夢を見れば見るほど、欲望を追求すれば追求するほど不自由になる、喉が渇く、ということがある。ゆえに「欲望の消去」を「幸福になる方法」として勧める思想もあるのであろう。欲望があるのと無いのではどちらが幸せなのであろうか。欲望や幸福、そして快や善や自由。これらはどのようなつながりにあるのか。快や善や自由や幸福は欲望の対象であるといえるだろう。そして欲望は善や自由の視点から検証されるかもしれない。「その欲望は悪ではないか」「その欲望は不自由ではないか」と。快や幸福も同じように検証されるかもしれない。「その快は悪ではないか」「その快は不自由ではないか」「その幸福は悪ではないか」「その幸福は不自由ではないか」と。自由とはなんであろうか。自由は欲望を作り変える。世界観を価値観を遠近法を作り変える。世界を変える。選択肢を作り出す。移動する。欲望のままに。そして欲望を作り変える。そして欲望のままに移動する。夢を見る。選択肢の多い場所を目指す。選択肢を創造する。時に選択肢を欲望を消去する。しかしそれも欲望の声なのだ。自由に関して「我々はこうすべきだ」と言えることはあるだろうか。「自由が奪われる」「自由を獲得する」ということがあるだろう。「誰かが誰かの自由を奪う」ということはあるだろう。「自由を不断に奪われ続けていることに気が付かない」ということもあるだろう。社会の閉塞感が言われて久しい。自由を求めて。もはやないやもしれぬそれを。
想像力が「自由」のポイントなのかな。空想や妄想が選択肢を可能性を広げる。というか選択肢や可能性を想像妄想空想創出する。それは頭の中で粘土をこね回したり切ったり貼ったりの編集をするような行為なのだろうか。自分自身の欲望に問い尋ねながらナイスなアイデアを生み出そうとする。見たことも聞いたこともない、でもずっと見たかった聞きたかったようなものの新たな想像。そのイメージ。そのイメージの具現化。そのイメージの探求。それは世界を旅することかもしれないし、アトリエにこもり絵を描くことかもしれないし物思いに耽ることかもしれないし出会いを求めて街に飛び出すことかもしれないし本を読んだり映画を観たり音楽を聴くことかもしれない。膨らむ欲望や想像、それに答える「かたち」。その間に自由や不自由があるのだろうか。巨大な夢を欲望を想像を抱えたある人物。しかしそれを「かたち」にするすべを持たぬ人物。具現化できぬ人物。とすれば王のごとき立場にあるものであっても「ロマンティスト」であれば「夢想家」であれば(ビューティフルドリーマー!!)「不自由」であるといえるのかもしれない。牢獄の中のように。欲望や妄想や思想のかたちによって不自由も違うだろう。穴に閉じ込められるのでもアリやダニやキノコや牛や馬やモグラや犬や猫や人間や豚では違うだろう。自由も違うだろう。豚に真珠とか馬の耳に念仏と言うが。快も不快も善も悪も自由も不自由も「個体」によって違ってくる。その「個体」の持つ「世界観」「価値観」「遠近法」によって変化する。ここで「快」と「善」と「自由」の違いとはなんであろうか。「快感だが悪」というのは想像しやすい。「良心」や「理性」が欠如した人物にとっての暴力や薬物であろうか。特に良心や理性が欠如していなくとも状況によっては誰もが暴力や薬物が快感になるかもしれない。すると快は生理的、本能的、身体的なもので、善は法律的、道徳的、倫理的なものであろうか。ぼんやりとではあるが「快」は個人に関わり「善」は社会に関わるようにも見受けられる。「快楽の追求」の帰結と「善の追求」の帰結があるとすると何か「自分のため」と「世のため人のため」に別れる気もする。すると「自由」とは何か。「人」の前に「選択肢」として拡がるものは何か。それがテレビゲームであったらどうか。サッカーや野球であったらどうか。将棋やトランプゲームであったらどうか。そして人生の諸局面であったらどうか。