想像力が「自由」のポイントなのかな。空想や妄想が選択肢を可能性を広げる。というか選択肢や可能性を想像妄想空想創出する。それは頭の中で粘土をこね回したり切ったり貼ったりの編集をするような行為なのだろうか。自分自身の欲望に問い尋ねながらナイスなアイデアを生み出そうとする。見たことも聞いたこともない、でもずっと見たかった聞きたかったようなものの新たな想像。そのイメージ。そのイメージの具現化。そのイメージの探求。それは世界を旅することかもしれないし、アトリエにこもり絵を描くことかもしれないし物思いに耽ることかもしれないし出会いを求めて街に飛び出すことかもしれないし本を読んだり映画を観たり音楽を聴くことかもしれない。膨らむ欲望や想像、それに答える「かたち」。その間に自由や不自由があるのだろうか。巨大な夢を欲望を想像を抱えたある人物。しかしそれを「かたち」にするすべを持たぬ人物。具現化できぬ人物。とすれば王のごとき立場にあるものであっても「ロマンティスト」であれば「夢想家」であれば(ビューティフルドリーマー!!)「不自由」であるといえるのかもしれない。牢獄の中のように。欲望や妄想や思想のかたちによって不自由も違うだろう。穴に閉じ込められるのでもアリやダニやキノコや牛や馬やモグラや犬や猫や人間や豚では違うだろう。自由も違うだろう。豚に真珠とか馬の耳に念仏と言うが。快も不快も善も悪も自由も不自由も「個体」によって違ってくる。その「個体」の持つ「世界観」「価値観」「遠近法」によって変化する。ここで「快」と「善」と「自由」の違いとはなんであろうか。「快感だが悪」というのは想像しやすい。「良心」や「理性」が欠如した人物にとっての暴力や薬物であろうか。特に良心や理性が欠如していなくとも状況によっては誰もが暴力や薬物が快感になるかもしれない。すると快は生理的、本能的、身体的なもので、善は法律的、道徳的、倫理的なものであろうか。ぼんやりとではあるが「快」は個人に関わり「善」は社会に関わるようにも見受けられる。「快楽の追求」の帰結と「善の追求」の帰結があるとすると何か「自分のため」と「世のため人のため」に別れる気もする。すると「自由」とは何か。「人」の前に「選択肢」として拡がるものは何か。それがテレビゲームであったらどうか。サッカーや野球であったらどうか。将棋やトランプゲームであったらどうか。そして人生の諸局面であったらどうか。