電車に乗っている時にチケットを家に忘れたのに気付き慌てて引き返したりしたが何とか辿り着いた。地図にスペイン坂を上ったところにあるとあり、それとおぼしき狭い道を歩いて行った。雨の中傘をさしながら。坂を上りきると看板に大きく「スペイン坂」と書いてあった。左手の建物の入口の上のところに「WWW」と書いてあった。階段を下ってライブハウスへ。ドリンク代は500円。後で知ったが映画館を改造したライブハウスだそうだ。始めの演奏はこれはミニマルミュージックというのか。電子的なノイズで虫の声のような音が微妙に調子をかえながらえんえんと続く。自分の顔を上に向けたり下に向けたりすると音が変わるようだ。奇妙な心地良さがあり非常に単調でありながら永遠に続いて欲しいとも思う。次は高橋悠治とPhewの共演。高橋悠治さんは浅田彰さんなどが言及していたり著書を少し読んだりYouTubeで演奏を聴いたりして興味があった。偶然手にしたフライヤーからこのライブを知り来たのだ。エリック・サティの演奏が凄かった。何か水のような、黒くて透明な熱くて冷たい水のような音だった。共演は何かフランスかどこかの革命家とか革命運動のような雰囲気があった。会場を出るとまだ雨だ。折りたたみ傘を開きスペイン坂を下り渋谷駅へ向かった。
個人的な快や不快が家族や他人や国会に拡大する。それは思いやりなのか想像力なのか知性なのか。自分の発展や存続や快楽。それと家族や他人や国家と矛盾する場合に家族や他人や国家の利益を選択し自身の快をあきらめたりするかもしれない。それは道徳なのか理性なのか。なにかしらの拡大が起きているのか。自身の範囲に限っても「旨いが体に悪いもの」を食べないことを選択するのは「未来」を想像している、思いをはせているといえるかもしれない。「現在」しか見えなければ旨ければ食ってしまう。眠たければ寝てしまう。気持ち良ければやってしまう。しかしそれではまずい場合がある。それは「先」を「未来」を見通している、そこから判断して快を我慢し断念しているといえる。それは人間の知性なのか理性なのか。空間的な拡大時間的な拡大がそこにはあるのか。人間の知的能力がそれをもたらしたのか。人類全体や地球全体、人類の未来や地球の未来を心配してしまう。それが人間の能力なのだろうか。快や不快の個人的原理が宇宙的時間的に無限に拡大してしまう。そんな世界に生きる人間にとって「最終的な価値」に設定されるものは何なのか。その究極の目標を中心にしてその人間の世界が構成されるのだろうか。その中心が「神」であったりかも「哲学」であったりするのであろうか。現代人にとって、現代の日本人にとってその「中心」は何なのだろうか。テレビで流れる「健康」や「節約」や「クイズ番組」や「ヒット曲」や「震災ニュース」や「ACのCM」や「お笑い番組」や「スポーツ」がその「中心」が何なのかを示唆しているのであろうか。それは我々自身も気が付かない我々の欲望の姿なのであろうか。靄の向こう、限りなき遠方にある鏡に映った我々の欲望の姿。その中心にある「点」。この我々の、私の世界を構成する「点」。それは時代や国や地域や民族や宗教や文化によって変わるのであろうか。科学や学問や芸術の進歩。個人の個人史における事件や成長がその人をその人にとっての世界を変えるようにそれらが変えるのであろうか。変化する「点」。「中心」。「最善の点」のごときものは存在するのか。革命が起きる。従来の価値が引きずり落とされる。「新しい点」が設定され世界が再構成される。現代は「敵」が見えにくい時代といわれるそれは「点」が見えにくいということだろうか我々を支配する「点」それは我々の欲望の姿でもあるのか敵が見えづらいのは敵を追いつめているからかもしれない。
快や不快というものも文化的虚構であるのかもしれない。法律的な善悪や道徳的善悪が国や時代や宗教で違うように。ある時代のある考え方のもとでは許されない悪であり神の摂理自然法則に反していることがある時代国考え方のもとではまったく逆に自然な普通の正常なことになってしまう。人間の考え方、趣味嗜好、思想を規定する支配する様々なもの。それは宗教だったり何らかの思想に基づいた教育だったり洗脳だったりするのだろうか。あるいは「自然な」流行やムーブメント、ブームのように現れるかもしれない。時代的な強制力があるのかもしれない。もしかしたらパンダが可愛いとか佐々木希が可愛いとかいうのも何らかの強制力が働いているのかもしれないしAKB48のCDを買ってしまうのもそうかもしれない。感動したとか面白いというのもそのように感じる感受性の土台をそのように作られているのかもしれない。時代の変わり目や思想と思想の隙間。やばい人物として敬遠されたり処罰される人物、無視される現象が我々に何かを語りかけてくるのかもしれない。そのように様々な価値観、世界観がプカプカ浮かぶような世界に一見フリーに放り出された「私」はどこへ向かえばよいのか。自身の深い欲望の声に忠実であるべきなのか。その欲望の声は人により個体により千差万別なのであろう。その様々な無数の価値観、世界観を総合的に批評、批判する観点、視点は可能なのか。思想のミシュランガイドのようなもの。それともありとあらゆる思想、価値観、世界観、趣味、考え方には優劣はなく相対的なもので個人個人の趣味や好き嫌いということであるとしかいえないのであろうか。それは正義や真理が可能か?全員の納得し共有する真実や価値や善が可能か?ということであろうか。神がたくさんあり、教義がたくさんあり、矛盾する禁止事項があるとすると難しそうだ。しかし例えば今回の震災で皆が何かしたいと思っているというのは一緒だ。しかし一歩踏み出すと足並みは揃わなくなる。原発ひとつとってもそうだろう。快や不快、人間の欲望。人間の欲望を肯定すべきか否定すべきか。肯定するにしてもそれはどのような欲望なのか。肯定され実現された欲望はどのような形をとるのか。その欲望、その実現された欲望をどのように判定するのか。ひとそれぞれということなのか。価値や真実や本質や力や意味や目的や方向性を追い求める。何が答えになるのか、何が救いになるのか、模索探求し続けることが必要であろう。