個人的な快や不快が家族や他人や国会に拡大する。それは思いやりなのか想像力なのか知性なのか。自分の発展や存続や快楽。それと家族や他人や国家と矛盾する場合に家族や他人や国家の利益を選択し自身の快をあきらめたりするかもしれない。それは道徳なのか理性なのか。なにかしらの拡大が起きているのか。自身の範囲に限っても「旨いが体に悪いもの」を食べないことを選択するのは「未来」を想像している、思いをはせているといえるかもしれない。「現在」しか見えなければ旨ければ食ってしまう。眠たければ寝てしまう。気持ち良ければやってしまう。しかしそれではまずい場合がある。それは「先」を「未来」を見通している、そこから判断して快を我慢し断念しているといえる。それは人間の知性なのか理性なのか。空間的な拡大時間的な拡大がそこにはあるのか。人間の知的能力がそれをもたらしたのか。人類全体や地球全体、人類の未来や地球の未来を心配してしまう。それが人間の能力なのだろうか。快や不快の個人的原理が宇宙的時間的に無限に拡大してしまう。そんな世界に生きる人間にとって「最終的な価値」に設定されるものは何なのか。その究極の目標を中心にしてその人間の世界が構成されるのだろうか。その中心が「神」であったりかも「哲学」であったりするのであろうか。現代人にとって、現代の日本人にとってその「中心」は何なのだろうか。テレビで流れる「健康」や「節約」や「クイズ番組」や「ヒット曲」や「震災ニュース」や「ACのCM」や「お笑い番組」や「スポーツ」がその「中心」が何なのかを示唆しているのであろうか。それは我々自身も気が付かない我々の欲望の姿なのであろうか。靄の向こう、限りなき遠方にある鏡に映った我々の欲望の姿。その中心にある「点」。この我々の、私の世界を構成する「点」。それは時代や国や地域や民族や宗教や文化によって変わるのであろうか。科学や学問や芸術の進歩。個人の個人史における事件や成長がその人をその人にとっての世界を変えるようにそれらが変えるのであろうか。変化する「点」。「中心」。「最善の点」のごときものは存在するのか。革命が起きる。従来の価値が引きずり落とされる。「新しい点」が設定され世界が再構成される。現代は「敵」が見えにくい時代といわれるそれは「点」が見えにくいということだろうか我々を支配する「点」それは我々の欲望の姿でもあるのか敵が見えづらいのは敵を追いつめているからかもしれない。