快や不快というものも文化的虚構であるのかもしれない。法律的な善悪や道徳的善悪が国や時代や宗教で違うように。ある時代のある考え方のもとでは許されない悪であり神の摂理自然法則に反していることがある時代国考え方のもとではまったく逆に自然な普通の正常なことになってしまう。人間の考え方、趣味嗜好、思想を規定する支配する様々なもの。それは宗教だったり何らかの思想に基づいた教育だったり洗脳だったりするのだろうか。あるいは「自然な」流行やムーブメント、ブームのように現れるかもしれない。時代的な強制力があるのかもしれない。もしかしたらパンダが可愛いとか佐々木希が可愛いとかいうのも何らかの強制力が働いているのかもしれないしAKB48のCDを買ってしまうのもそうかもしれない。感動したとか面白いというのもそのように感じる感受性の土台をそのように作られているのかもしれない。時代の変わり目や思想と思想の隙間。やばい人物として敬遠されたり処罰される人物、無視される現象が我々に何かを語りかけてくるのかもしれない。そのように様々な価値観、世界観がプカプカ浮かぶような世界に一見フリーに放り出された「私」はどこへ向かえばよいのか。自身の深い欲望の声に忠実であるべきなのか。その欲望の声は人により個体により千差万別なのであろう。その様々な無数の価値観、世界観を総合的に批評、批判する観点、視点は可能なのか。思想のミシュランガイドのようなもの。それともありとあらゆる思想、価値観、世界観、趣味、考え方には優劣はなく相対的なもので個人個人の趣味や好き嫌いということであるとしかいえないのであろうか。それは正義や真理が可能か?全員の納得し共有する真実や価値や善が可能か?ということであろうか。神がたくさんあり、教義がたくさんあり、矛盾する禁止事項があるとすると難しそうだ。しかし例えば今回の震災で皆が何かしたいと思っているというのは一緒だ。しかし一歩踏み出すと足並みは揃わなくなる。原発ひとつとってもそうだろう。快や不快、人間の欲望。人間の欲望を肯定すべきか否定すべきか。肯定するにしてもそれはどのような欲望なのか。肯定され実現された欲望はどのような形をとるのか。その欲望、その実現された欲望をどのように判定するのか。ひとそれぞれということなのか。価値や真実や本質や力や意味や目的や方向性を追い求める。何が答えになるのか、何が救いになるのか、模索探求し続けることが必要であろう。