与えられたルール。与えられた道具。自分の持つ能力やセンス。その場のひらめき、思いつき。その結果がどう出るか。成功か失敗か。幸か不幸か。吉か凶か。人間万事塞翁が馬とも言うが…とにかく選択により行為により結果が出る。そしてそれが積み重なる。不自由であるより自由であるほうが好ましいように思われる。選択肢が少ない、あるいは無い、よりも選択肢が多い、あるいは選択肢自体を作り出すほうが好ましいように思われる。するとそのような「選択肢のある場所」へ行くこと、「選択肢を作り出す能力」が重要であるように思われる。自分自身の欲望に世界観に合わせて。「蟹の自由」「エビの自由」「貝の自由」というものもあるだろう。あるいは一種の「処世術」として「欲望を変形する」「選択肢を切り捨てる」「選択肢を創造しない」「選択肢を無視する」ということもあるだろう。「酸っぱい葡萄」の話のように。「私はそれを求めてはいなかった」という物語の捏造。しかし夢を見れば見るほど、欲望を追求すれば追求するほど不自由になる、喉が渇く、ということがある。ゆえに「欲望の消去」を「幸福になる方法」として勧める思想もあるのであろう。欲望があるのと無いのではどちらが幸せなのであろうか。欲望や幸福、そして快や善や自由。これらはどのようなつながりにあるのか。快や善や自由や幸福は欲望の対象であるといえるだろう。そして欲望は善や自由の視点から検証されるかもしれない。「その欲望は悪ではないか」「その欲望は不自由ではないか」と。快や幸福も同じように検証されるかもしれない。「その快は悪ではないか」「その快は不自由ではないか」「その幸福は悪ではないか」「その幸福は不自由ではないか」と。自由とはなんであろうか。自由は欲望を作り変える。世界観を価値観を遠近法を作り変える。世界を変える。選択肢を作り出す。移動する。欲望のままに。そして欲望を作り変える。そして欲望のままに移動する。夢を見る。選択肢の多い場所を目指す。選択肢を創造する。時に選択肢を欲望を消去する。しかしそれも欲望の声なのだ。自由に関して「我々はこうすべきだ」と言えることはあるだろうか。「自由が奪われる」「自由を獲得する」ということがあるだろう。「誰かが誰かの自由を奪う」ということはあるだろう。「自由を不断に奪われ続けていることに気が付かない」ということもあるだろう。社会の閉塞感が言われて久しい。自由を求めて。もはやないやもしれぬそれを。