この前の金曜日吉田喜重の『戒厳令』を観た。三國連太郎演じる北一輝が主人公の2.26事件を扱った映画だ。北一輝は語る。「革命家とは革命を行う者のことではなくむしろ革命に耐えられる人間のことだ」と。北一輝は語る「人は皆とりとめなく生きている。しかし正午になり戒厳令がひかれる。人々は変わらない。しかし人々の間違いやとりとめのなさは戒厳令の厳粛さに吸収される。人々は無秩序の中に秩序を見出し、その見出された秩序が戒厳令を呼び出したことに気付くだろう」というようなことを語る。北一輝は何を望んでいたのか。北一輝の革命とは何だったのか。そして東京事変だ。金曜日の夜のミュージックステーションで解散ラストライブということで『群青日和』などをやった。これがまた圧倒的であった。椎名林檎はパフォーマンス前の対話で8年前東京事変を始める前、家庭に入ろうと思っていたと言った。しかしCDが売れない時代ということもあり活動を始めたと。そして今役割を終えたと感じ活動を停止すると語った。以前どこかのインタビューに答えて2001年の9.11があり、子育てなどの日常に満足していたが「社会に対して何かしたい」と思い東京事変を始めた。というようなことを語っていたと思う。社会に対して何か緊張感や緊張感のようなものを投げかけたかったのではないか。しかし震災後まさに日本は「非常時」になった。「平和ボケ」という言葉も遥か彼方である。『戒厳令』における「厳粛」のようなものを社会に与えたかったのではないか。つまり「事変」は実現されてしまったのである。「事変」や「革命」「戒厳令」を耐えるとはどのようなことであろうか。時は正午、憲法の消滅した非常時、戒厳令下の厳粛な青空にとりとめのないつまらない間違いだらけの日常が溶けていく。秩序は与えられるのではなく無秩序の中に見出されるという。無秩序がそのまま秩序に変化するといった感じだろうか。戒厳令の厳粛さの中で。押井守の映画『パトレイバー2』もそんなような映画ではなかったか。東京に戦争をでっちあげるというような。「実は今は戦争中である」という妄想を実現する話。東京の日常に「戒厳令」を「非常時」を「事変」を「革命」をぶちかます。目覚めさせる。震災以後、着実に復興していく日本、とは別の不気味な意識を皆拭い去れないだろう。この「非常時」に、この「厳粛」に触れた我々のとりとめのない人生がその内部に秩序を見出すことになるのか、どうなのだろう。
大変遅ればせながらですが…。それなりに映画は観てきたつもりだったけど…。15年くらい前に観た『殺人狂時代』の監督だと思っていたけど岡本喜八の間違いでした。天本英世が出てたやつ。結構おもしろいかった。WOWOWで観たんだっけか。同時期に観た『上海から来た女』もおもしろかったけど…。オーソン・ウェルズだったか…。ちょい前に観た『市民ケーン』はピンとこなかったけど…。今観とまた違うかな…。二十歳ぐらいで観た『勝手にしやがれ』はピンとこなかったけど40前で観たら凄くおもしろかった…。『気狂いピエロ』は二十歳ぐらいで観た時凄くおもしろかったけど…。ちなみに吉田喜重さんは16歳の時サルトルの『嘔吐』を読んだそうだ…。私は30ぐらいから読み始めたものの10年経ってもまだ前半部分ですよ。凄いおもしろいと思うけど。映画の話に戻ると吉田重監督の『煉獄エロイカ』を先日観た訳です。これが凄かった。とんでもなく凄かった。20年前に観ていたら私は自主映画を撮っていたのですが、撮る映画も多少は変わったのでしょうか。しかし凄かった。次は『エロス+虐殺』を、次は『鏡の女たち』を観てみようか。『鏡の女たち』は公開当時スパ!で中原昌也さんが褒めていた。観に行こうかとも思ったけど行きそびれた。確か恵比寿ガーデンプレイスとか現代写真美術館とかそんな感じの所で上映されていたっけ。『煉獄エロイカ』はいろいろ凄いけど例えば映像美的なものが凄い。とんでもないレベルだ。先日終了した『輪るピングドラム』とかも影響受けてるのかな。押井守さんとか。確実に観てると思うけど。鈴木清順とか吉田喜重とか小津安二郎とか本当凄いね。改めていろいろ観てみたいよ。最近は「映画を観る」っていうと勉強感覚というか修業感覚というかクリエイター修業として映画いっぱい観なきゃ、みたいな強制感覚というか強迫観念みたいな感じもあったけど、こんなに凄いのを観ると「単純に観たい!」よね…。そうはいっても『映画けいおん!』とかは本当楽しみにして劇場に観に行って凄い感動してグッズもいっぱい買ったけど…。でもやっぱり映画や音楽や本に異常に詳しい人に憧れるけどなかなかガンガン読んだり観たりできないね…。ドストエフスキー全集とかレーニン全集とかどうしたらいいんですかね。カントやハイデガーやヘーゲルやマルクスやニーチェやデリダやドゥルーズやフーコーも手元にあってもなかなか進まないよね…。まあゆっくりやっていこう。。
去年だったか今年だったか文学フリマで買った押井守の学芸大学での講演会を収録したミニコミを読んだ。「相対性」というものを語っていた。優秀だとかモテるだとかいうのも相対的なものであって絶対的なものではない。関係によって変わるものだ。時代や社会が変われば変わるもの。絶対的にこれが良いとかこれが正しいというものは無いという話。だから過剰に落ち込んだり過剰に有頂天になるなということか。絶望することは無いということかもしれない。そこで武器になるのは「日本語力」だそうだ。仕事でも何でも交渉したり説得したりするのに必要だそうだ。ただし小説を書くのだけは違うそうだ。それは完全に孤独な自分と向き合う作業。自分が何をやりたいかが見えなければ一行も書けないという。押井さんは自分の中にアート系の自分とエンターテイメント系の自分がいるそうだ。行ったり来たりして勝ちすぎず負けないで業界を生き抜いて来たという。いろいろ考えさせられる本だった。映画『スラムドッグ・ミリオネア』でクイズを勝ち進む少年。その「知力」は絶対的なものではなく少年固有の人生に根差した知識であった。絶対的な力を持つように見える存在も、たまたまその時代に生まれ合わせたとか、たまたまその「課題」に自分の存在形式が適合していたということかもしれない。「結局は十全に生きえたかどうかなんですよ」。中原昌也さんも言っていたように「精一杯生きる」ということだろう。