しょうのよりこさんの『柘榴の底』という小説を批評家のすがひでみさんのオススメで読んでいるところだ。すがさんの本『小ブル急進主義批評宣言』というのに載っていたのだ。図書館で借りてきた本である。それで、その小説の中に「モチ」というものが出てくるのである。これは「透明な虫」とともに主人公の最悪最強の敵として現れる。そして主人公の「味方」というか「安住の地」というか「逃げ場」が自分のまぶたの裏の「異肉」の世界として表される。それは均一な「肉」の世界であり、「内臓」のような秩序や序列や役割や意味を持たない。モチのようにねばねばしない世界だ。「人類全体を破壊するツボ」というものも出てくる。これは「肉」側のアイテムで、命を絶つ、という意味ではなく「意味を明るく無化」して、すべてを終わりにしてしまうものだという。これはタモリが赤塚不二夫の弔辞で読み上げた思想を連想させる。「これでいいのだ」と、すべてを肯定することですべての物事は意味の重力から解放されて「軽み」に至る。というようなことを言っていたように思う。この「肉」、「ツボの効果」は、この「軽み」のことなのだろうと思う。そして「意味の重力」が「モチ」や「透明な虫」のことなのだろうと思う。「透明な虫」は無数の群れとなり人をダニのようにおおいつくし、不断に生命エネルギーを吸い取り続けるような存在だ。そして吸い尽くされると人は「モチ化」してしまう、と主人公は考える。そしてその「モチ」が最悪最強の敵となり主人公の人生を支配してしまうのだ。このような感覚には非常に共感するものがある。「意味」とか「構造」とか「階層」とか「序列」とか「役割」だとかの重苦しく粘っこく纏わり付いてくるもの、「何か」にずっと苦しめられ悩まされてきた。その「何か」は「意味」であるとかいろいろ呼ばれ方はあると思うが、それを自分の中でズバリと言い当て、常に意識し、警戒、牽制することで何とか生き抜いてこれたようにも思う。その「何か」は主に「自分の世界の捉え方」なのだと思うが、明らかに「意味」の「濃度」が濃い場所や状況や人間や作品や集団や組織があるようにも思う。その「何か」は、この小説で言えば「モチ」や「透明な虫」は私の精神に致命的なダメージを与えるものである。そしてその「何か」はきわめて精神自体に似ているというかある意味精神自体であるところがやっかい、ややこしいのである。精神から精神を守る。というような事態なのである。
哲学用語なのだろうか。哲学方面は以前からずっと興味があり入門書的なものをチラチラ読んできた感じではあるが。数年前新宿に中沢新一目当てで行った時中沢さんが「ルソーとレヴィ=ストロースは直接性を信じていたと思う」と言っていた。「直接性」というと思考などの「媒介」を剥ぎ取った物質のむきだしの姿というかサルトルの『嘔吐』における「マロニエの根」というか理性や知性や思考を消失した人間の直接的経験というか一種の「現実」というか「唯物論」的な何かというかそんなイメージだった。しかし「媒介」を強調するというか肯定するというか救い出すというかそんな思考もあるようだ。それは「直接性」が実体化、つまり観念化されあたかも「神」のように「神格化」され触れるべき「現実」を見失ってしまうような事態への批判としてあるのだろうか。「媒介」、つまり「言語」や「記号」や「思考」や「知性」や「理性」。結局人間は「そういうもの」であり「言語的体系」の中で生きている。「神」や「信仰」、「感情」「熱狂」「感覚」「直観」「直接性」なるものは本来ありえない「錯覚」であり「妄想」である。と。すると「神」は「真の神」はどこにいるのか。どこに宿るのか。「経験」は「現実」はどこにあるのか。「言語」を「媒介」の働きを繊細に精密に観察することにより見出されるのではないか。それがデリダの「エクリチュール」というものかもしれない。それは「媒介」の「直接性」、「言語の物質性」とでもいうものだ。「直接性」にしろ「媒介」の「直接性」にしろ「直接性」を求めている。それは命の実感、信仰、熱狂、感情、現実といったもので我々が日常的に感じていながら見失いがち忘れがちな奇妙なものかもしれない。それはニーチェのディオニソス、巨大な多様体、カントの物自体、ハイデガーの存在、フロイトの無意識、マルクスの唯物論、商品の使用価値というようなものであろうか。「言語の物質性」「言語の肉体性」「言語の直接性」といったものに真の「直接性」に迫る新たな切り口があるのかもしれない。
昨日Eテレの番組に中沢新一さんが出ていたので観た。南方熊楠と田中正造についての番組だった。その中に「南方マンダラ」というものが出てきた。昔『知ってるつもり』で観た時は「宇宙の縁」みたいなものを表していると説明されていたと記憶している。脳の絵のようなものの上に出鱈目な線が引かれていていくつかの記号が書かれているようだ。中沢新一さんは「自然の精妙さ」を表していると言っていたか。西洋の科学では自然は克服、管理、支配の対象と見ていた。合理主義によって。しかし日本は自然と人間が対等であると、大きな自然の中、人の立ち入ってはならない精妙な森の中にいる生命のひとつと考えていた。熊楠の言葉で自然の一面を取り出し感じ、それを自らの喜びとする。というようなものがあった。もう一度ビデオで見てみたい。それとポロックの絵である。先日ポロック展へ行ってきた。ポロックは自分の絵を「カオス」と言われて怒ったという。ポロックは自身の絵を完全に意識でコントロールして描いている。とも言っていたようだ。その反面、意識の支配を脱し、無作為に描く。というようなことも言っているようだ。これは矛盾しているのだろうか。人間の中にはいくつもの「意識」があるようにも思う。それは層のようになっているかもしれないし、顕在意識と潜在意識とか無意識とか、知性や理性や思考と本能や感情や感覚と言い表されたり脳と心、と言われたりするかもしれない。そしてそのそれぞれが考えたり判断したり選択したりするのだ。つまりポロックは「ある精神状態」に忠実にコントロールしてその絵を描いたと言えるだろう。それは「意識」と「変性意識」の違いとも言えるだろう。「秩序」と「無秩序」という対比がある。脳と心、思考と直感、意識と無意識、どちらが秩序でどちらが無秩序なのだろうか。どちらが「カオス」なのだろうか。「カオス」というと一般に良いイメージは無いかもしれない。しかしそこに「自由」や「熱狂」など「よい」イメージを読み取る人もいるだろう。私は子供の頃ウルトラマンより怪獣が、仮面ライダーより怪人が好きだった。怪獣でもバキューモンやバルンガなど「カオス的」な怪獣に妙に魅力を感じたりもしたものである。「神」は秩序なのか無秩序なのか。「知性」は秩序なのか無秩序なのか。ニーチェは「私は踊る神を信じる」と言った。「森」は秩序なのか無秩序なのか。「ポロックの絵」は秩序なのか無秩序なのか。「ある種の精妙さ」があるのだろう。