夕焼けニャンニャンが始まったのは1985年だったろうか。私が14歳の時である。番組が終わった後、家の外、小学校の方角から「真っ赤な自転車」が聞こえてくる、という幻聴体験を今でも覚えている。おニャン子もAKBも秋元康プロデュースなわけだが、どちらも一世を風靡した。おニャン子は当時「アイドルファン」以外も取り込んだと言われた。教室に一人はいるような、隣のお姉さんのような素人っぽさが斬新だった。「夕焼けニャンニャン」という番組が学校の教室の延長、あるいは「理想の教室」のようなものだったのかもしれない。おニャン子とAKBの間に20年ある。この20年間に何があったかといえば「モーニング娘。」だろう。秋元康自身も衝撃を受けたようなことをどこかで語っていた気がする。「普通の女の子」「素人っぽい女の子」が「テレビで歌ったり踊ったりする」というのはおニャン子と一緒だが、プロ根性というかプロ意識というかが全然違うし、そのひたむきな努力によってどんどんプロ化していく様を見せることがエンターテイメントにもなっている。そしてつんくの徹底的なサービス精神、エンターテイメントに賭ける情熱の凄さ。これに秋元康は「目から鱗」だったのではないか。別に秋元康が不真面目に仕事をしていたとは思わないが、「素人っぽさの魅力」や「仕掛け」にあぐらをかいていた面もあるだろう。AKBはモーニング娘。を秋元康流に消化したものなのかもしれない。おニャン子とAKBの違いについて批評家の宇野常寛が興味深い事を雑誌『わしズム』に書いている。このブログもその記事の影響である。80年代90年代は「虚構の虚構性」を暴いたり本物と偽物の区別が曖昧になるような表現が力を持っていた。電波少年や岩井俊二の映画だろうか。リアリティ・ショーやフェイク・ドキュメンタリーと呼ばれるものらしい。90年代「偽物」が力を持っていた、というのは私自身も心当たりがある。「まごうことなきまがいもの」を合言葉に世界が偽物におおいつくされるのを夢想したりしていたような気もする。「偽物」というものが何かロマンティックな意味を持っていたのだ。しかし時代の潮目が変わる。インターネットの影響なのかどうなのか「むきだしの現実」「現実のダダ漏れ」が力を持って来たのだ。なにもかもがガチ。ガチでなきゃ意味がない。それはプロレスの衰退とも時期が重なるのかもしれない。そういえば当時は三沢、川田らの四天王プロレスに夢中だった。
それに対して他の「被験体」は子供のまま老化しているという感じだ。これは「流れ」や「時間」の「せき止め」が不完全であった事を表しているのではないか。アキラ達は兵器として「開発」されたのであったか。これも原子力や原爆を連想させる。地中深く封じ込められたアキラは放射性物質のようだ。アキラの頭の中を覗き込んだ鉄男はアキラの力に「感染」して「覚醒」する。自分の「力」をコントロールできない鉄男の体は胎児化しドロドロに溶け出す。身体が原初化して世界を呑み込み始めるのである。宇宙の始まりと生命の始まり。その聖なるカオスの力が「秩序」を呑み込み破壊する。AKIRAのラストシーン。バイクに乗って走る金田達の周りに巨大なビル群が「再生」する。大いなる秩序が再び回帰する。秩序の圧倒的な構築が「力」を溜め込むことになるのか。そして「解放」と「溜め込み」を繰り返し、螺旋階段を上るように人類はどこかに向かっているのだろうか。
先日テレビで『風の谷のナウシカ』が放映された。途中少し見なかったがほぼ見た。感動して泣いちゃった。見るのは何度目かわからないけど。原作の漫画は読んでいない。「遥か西方の強大な軍事国家トルメキア」の「辺境統一部隊」みたいなのの隊長みたいなのがクシャナであるとか海から吹く風によって風の谷は腐海の毒から守られているとか理解した。ツイッターのツイートでもあったが今回の津波や原発事故を予言している内容にも思えた。巨神兵が原発でオームの群れが津波だ。作品中で「多すぎる火は何も生まない」という台詞があった。火は一日で森を焼くが水と土は百年かけて森を育てる。と。「多すぎる火」とは原発や原子力のことにも思える。文明のエネルギーを転換すべきだというメッセージと受け取られる。風力発電や水力発電や地熱発電や太陽光発電への切り換えだ。そをて昨日「大友克浩原画展」へ行ってきた。『AKIRA』の原稿がすべて展示されており改めて圧倒された。台詞の活字を張り付けた部分や原稿に塗ったスミなど生々しく見ることができた。絵の圧倒的な力というのは勿論あるが作品の内容として非常に考えさせるものが改めてあった。「都市」「ビル」「建造物」の圧倒的な構築とその圧倒的な破壊。秩序、構築と混沌、カオス。アキラの「覚醒」によって人類の文明、ビル、建造物は徹底的に一気に破壊される。その描写はあの震災、津波の悲惨な被害状況、瓦礫の山を連想させずにはおかない。大友さん自身もその類似性に戦慄しその戦慄が今回のチャリティ企画をやる動機のひとつになったのかもしれない。作品中に登場する科学者たちがアキラの「爆発」をまるで宇宙の誕生のようだと、「リトルビッグバン」のようだと言う。アキラの爆発はその内部でまるで原初の宇宙のような現象が観測されたのだ。「宇宙の始まり」の「カオス」が人類の文明を呑み込んでいく。アキラの「力」はその爆発の形状からも原子爆弾や原子力、原発を連想させもする。アキラは確か「兵器」として作られたのではなかったか。ミヤコ様が語る。「水は高きから低きへと流れ密から疎へと至る。しかし流れをそのままにしていては「力」を意識することはない。流れをせき止め一気に解放することで「力」は意識されその「力」に人々は戦慄するのだ」と。アキラは「流れ」をせき止めている存在なのかもしれない。子供の姿のままだというのも「成長」や「成熟」や「老化」や「時間」に抵抗しせき止めた結果かもしれない。