すると庵野監督はどう考えるだろうか。むしろロボットに乗らない事が「現実に立ち向かう事」なのではなかろうかと思うのではないだろうか。オタクたちの夢を破綻させ、現実に目を開かせる。そこでは否応なしに「モテない冴えない気持ち悪い自分」に直面させられるかもしれない。苦いばかりの現実世界に放り出される事になるかもしれない。しかし自分自身が、オタクたちが変わるためにはこの良く出来た「ロボットアニメ」を破壊しなければいけない…。そう思ったのかもしれない。テレビシリーズの最終回はどのような話だったろうか。ほとんど気が狂ったかのような絶望と憂鬱と苦悩の中で微かな光に手を伸ばす。引きこもり、ゼロ化された世界の中から厳しくもリアルな「人間」を「現実」を「社会」を求める。そして勇気を持って「現実と向きあって生きる事」を決断する。すると書き割りの「ロボットアニメの世界」が崩落し、「オタクの夢の世界」から解き放たれたキャラクターたちから「おめでとう!」と祝福される。シンジ君の新しい夢、光り輝く「現実の人生」の門出を祝して…。
そのようなものが感じられる。「自分は、オタクは、このままでいいのか?」という激しい疑問。それは監督自身の現実生活における報われない悲しい恋愛体験が背景にあったのかもしれない。しかしどんなに現実が苦しくとも「甘いオタクの夢」の中にいたままでいいのであろうか?変わらなければいけないのではないか?いかに恐ろしくとも厳しくとも残酷であろうとも「逃げちゃだめだ!!」そう思ったのではないのだろうか。一歩踏み出さなければ、壁をぶち破らなければ「本当の充実」には永久に辿り着けないのではないか?そう考えたのかもしれない。すると「エヴァントゲリオン」内の碇シンジ君の態度はいささか複雑なものとなる。シンジ君はロボットに乗りって悪の組織と戦う事を強要される。物語の中ではロボットに乗る事が社会参加する事であり、社会に現実に立ち向かう行動なのである。そこでシンジ君は「逃げちゃダメだ!」と自身を叱咤激励する。物語の中では「ロボットに乗る事」が「大人になる事」なのだ。しかしこの事態を外から眺めればそれは「オタクの喜ぶロボットアニメのストーリーに乗っかる事」に過ぎない。「オタクの甘い夢の持続に荷担する行為」に過ぎないのだ。
エヴァンゲリオンは1995年に大はやりした当時、知人から聞いて存在は知っていたが結局あまり見なかったし嵌まらなかった。しかしその後も続くブームの中でそこから生まれる言説や作品内に盛り込まれた知識や公開された新作映画などから少しずつ興味が出てきた。この前テレビで見た映画にもなかなか凄いシーンがあり思わず感動してしまった。テレビシリーズも全て通しては見ていない。飛び飛びで見ており、最後の2話は見たと思う。テレビ放送終了後、ブームの渦中の監督がラジオ番組にゲスト出演していた。そこでは「オタクはオタクを卒業し、現実へ、社会へ踏み出さなければいけない」と、自戒を含めた感じで語っていた。「エヴァンゲリオン」は、ロボットアニメの歴史の総決算のような作品であり、そこには「アニメ批判」「オタク批判」が含まれている。誰よりもオタクである監督自身の葛藤が刻印されていると見受けられる。「オタクがロボットアニメを見て喜ぶ」「オタクの喜ぶロボットアニメを作る」という事への自己批判。