しかし例えば睡眠中の「夢の中」でも「視覚」や「聴覚」や「思考」は何等かの活動をしていると思われるし、「夢の記憶」といったものもあり、明らかに我々の経験の一つとして人生に刻み込まれるとも言える。すると「夢」も「現実」であると言える。それは映画の経験や読書の経験も同様である。すると「全ては現実である」という事になるのであろうか。すると「夢と現実との往復運動」というのは有り得ない虚構なのであろうか?しかし「夢と現実の往復運動」というのは確かにあるように思われる。それは国と国、町と町、村と村、教室と教室、家と家を行ったり来たりするようなものなのだろうか?国Aから国Bへの移動…。しかし「夢」と「現実」には何か「質的な相違」が含まれているように思われる。それは何だろうか。例えば部屋に閉じ篭り続けた若者が久しぶりに外に出る…あるいは人里離れた洞窟で生活していた孤独な聖者が何年ぶりかに町へ出る…そのような趣が「夢から現実へ」にはある。あるいは逆に人間関係に疲れたサラリーマンが映画館に逃げ込んだり孤独な少年が漫画に没頭したり…というのは「現実から夢へ」ではなかろうか…そこでの移動の動機は「退屈さ」や「不快感」や「疲労感」だったりするのであろうが、その質的な相違、方向性の違い、とは何であろうか。取り合えずそれは「内から外へ」「外から内へ」というように見受けられる。
夢とは何だろうか。現実とは何だろうか。小説や映画や漫画などでよくテーマになるものに、夢と現実の往復というようなものがあると思う。「夢オチ」というのもそうだと思うし、フィクションの世界ではない現実世界にしても「夢の実現」「理想の世界の実現」というのはよく語られる話だ。夢と現実との行き来というと押井守監督の『ビューティフル・ドリーマー』や、うる星やつらテレビシリーズの「哀れ!愛とさすらいの母!」が思い起こされるが、この「夢と現実」「夢と現実との行き来」に何か我々の心が掴まれるのは何だろう。例えば人は「現実」に反発したり嫌気がさしたりして「夢の世界」に閉じ篭ったり、現実の社会の変革を企てたりする。はたまた逆に「夢の世界」の、その予定調和ぶり、刺激のなさに退屈して新鮮な現実世界へと飛び出したりもする。この往復運動。その動機はいずれね場合も「退屈さ」なのであろうか?人は現実に退屈し夢へと逃れ、夢に退屈し現実へと逃れる。その繰り返しなのだろうか。「夢」とは何であろうか。睡眠中に見る「夢」、「夢や理想」という時の夢。「現実世界」に存在しない「非在の世界」、そんな意味合いがあるのであろうか?すると各種フィクション、映画や小説、舞台や漫画、アニメやゲームの世界も「非在の世界」の取り合えずの実現という事で「夢の世界」なのであろうか。取り合えずの「実現」であるから「現実」に半分足を突っ込んだ世界なのであろうか。人形遊びをしている子供は「現実」の中にいるのか「夢」の中にいるのか。
そこで前田敦子を思い出す。AKB48は「オタクの夢」だった。前田敦子はAKB48の支柱だった。その支柱が前田敦子自身の選択で引っこ抜かれた。甘いオタクの夢を見ていたサーカス小屋のテントは無残に崩れ去り、味もそっけもない現実の世界へと強制的に「目醒めさせられる」。何となく「エヴァンゲリオン」に似てはいないだろうか?気まぐれな前田敦子は「オタクの夢」に「自身の夢」を犠牲にしてまで付き合うつもりはない。AKB48という「オタクの甘い夢の世界」、よく出来てはいるが何か物足りない安全な世界。前田敦子はその世界を出て「女優」という「新しい夢」に挑戦しようとしている。確かに「オタクの夢」「アイドルという夢」と「自分の夢」が一致していた時もあったろう。しかし「恋をした庵野監督」のように「女優」に「芝居」に「映画」に恋をした前田敦子はもう「オタクたちの甘い夢」「アイドル」の世界には戻れない。庵野監督が「良く出来たロボットアニメ」を破綻させたように前田敦子は「最高のアイドルグループAKB48」を卒業する事を選んだのだ。我々オタクは確かに一瞬夢の終わりを垣間見た。それは確かに残酷な体験だった。しかし前田敦子の夢が続くようにオタクの夢もAKB48メンバーの夢も秋元康の夢も続くだろう。「残酷な現実に目覚める事」だけが人生の意味ではない。「アニメ」にも「アイドル」にも意味はある。しかし「現実」に魅せられた庵野監督や前田敦子の経験は永遠にかけがえなく光り輝き続けるように私には思える。「あっ ちゃん、おめでとう!!」