いつになったら役に立つかわからない数学や物理学の研究になんらかの「保護」や「援助」は必要だろうし、絶滅しそうな生物種の保護も必要だろう。「純文学」「文芸誌」の場合はどうであろうか。この場合の「保護」や「援助」は「出版社」ということだろう。国ではない。会社である。テレビ局が「局の良心」といった感じで硬派なドキュメンタリーを放送したりするようなことなのだろうか。「売れないが必要」「人気は無いが重要」。そんな存在。それは「商品」としては「不良品」「欠陥品」かもしれない。しかし「誰か」には命が懸かっている程に必要かもしれない。それは難病の治療薬のようなものかもしれない。研究費、開発費の割に売れない薬。儲からない薬。毛生え薬やダイエットの薬や風邪薬は売れる。商品としては売れるほうが優秀なのだろう。しかし売れない、儲からないから価値が無いというのは余りに乱暴な話だ。少数にしか届かない、一人にしか届かない、誰にも永遠に届かないかもしれない、だけど気持ちのこもった「もの」。もしかしたら作者の気持ちすらこもっていないかもしれない見捨てられたかのような「もの」。その「もの」がいつか誰かの元に辿りつきその誰かの心を暖かくするかもしれない。売れない文芸誌の誰も読まない純文学もそのようなものかもしれない。作者がひたすら自分自身の心の中に潜り込み、自分のために、そしてどころかいるかもしれない自分とよく似た他人のために書いたような小説。「売る努力」「伝える努力」とは徹底して無縁に見えるそんな「個人的な充実」に満ちたような作品。しかしそんな「閉じた作品」がびっくりするほど多くの人の心にとびこみ虜にしてしまうこともままありそうな話である。徹底して自分自身の価値基準に忠実に作り上げた作品。多くの場合空振りに終わり理解されないかもしれない。しかし「よくわからないけど凄い」というものはある。アウトサイダーアートのように。「エンターテイメント」「売り上げ」「伝達、コミュニケーション」に過度にこだわるのはとてもいびつな事に思える。しかしそれは何かそれぞれの陣営に何か骨絡みな「生き方の違い」「思想の違い」のようなものがあるようにも思われる。吉本隆明が「表現(コミュニケーションの言語)」と「表出(沈黙の言語)」と言っていたが、それのようなものなのだろうか…。まあ文芸誌にAKBとかバンバン載ったらそれはそれで面白いと思うけど……。
純文学論争というものがあるらしい。純文学が主に載っている「文芸誌」の売り上げが思わしくないのだが、出版社が「文化遺産」みたいな感じで保護していることへの批判とそれへの批判みたいなものらしい。これは大きな問題である。これは様々な局面で昔から闘われる価値観の衝突、「芸術VSエンターテイメント」にも繋がると思われる議論である。それは煎じ詰めれば「一冊も売れないものに価値は無いのか」「一枚も売れないCDに価値は無いのか」「客が一人も入らない映画に価値は無いのか」「一枚も売れない絵に価値は無いのか」というような話であろうか。しかし買わないまでも「なかなかいいじゃない」という感想を誰かが抱くということは有り得るし、たでくうむしもすきずきでなかなか「前人類に嫌われる」というのも至難の技である。日本とアフリカでは美人の基準が全く違うという話も聞いたことがある。まあ取り合えず「純文学論争」に話を戻すと例えばある作家の作品が全く売れないのだが文学の専門家や権威からの評価は非常に高く、いくつもの賞を獲っている、ということはありそうなことだ。また一般的な知名度は全く無いが一部の熱烈なファンに支えられて活動している、というのもありそうなことだ。また、一般的人気も一部の熱烈なファンも居なく完全な赤字なのだが本人の趣味、あるいは執念、情熱で活動している人も沢山いるだろう。そんな人々や作品を全否定はできまい。ただそこで作者の創作上のスタンスを問うという上での考え方の違いというのはありそうだ。おおざっぱに言って「人のために作るか」と「自分のために作るか」。「売るために作るか」「作りたいものを作るか」。というようなものだ。「エンターテイメントと芸術の対立」である。確かに現代の表現作品においては芸術とエンターテイメントいうジャンル分けは無効かもしれない。しかし私にはそこに今現在も深い対立を見る。まあそれは一旦置いておいて、「売れないもの」への「援助」や「保護」の問題もあるだろう。例えば貧乏芸術家を国が援助すべきか?というような。ビートたけしはテレビで「売れない芸人も俳優も芸術家もバイトでも何でもして活動すべき」と言っていた。これは例の生活保護問題の時に言っていた。「夢を好きで追っているわけであって、働けないわけじゃないから」というような話だったと思う。
ということは「内」とは何か、「外」とは何か、とう事だ。外とは人々が暮らす社会、世界、外界の事、「内」とは、自分の世界、孤独な世界、内面の世界、と言えそうだ。これは誰もが行き来している事だろう。会社や学校で人と関わり、またプライベートな孤独な時間も楽しむ。といったところだ。しかし極端にどちらかに振れる人々もいるだろう。絶えず誰かとコミュニケーションを取っていなければ不安だという孤独恐怖症の人物。あるいは逆に対人関係に疲れ果てたコミュニケーション恐怖症の人物。「内と外」「外と内」、それは「対象」と「意識」とも言い換えられるだろうか。「他者なき対象」「意識を対象として意識する」というものもあるだろうが、取り合えず「物」や「対象」と「心」や「意識」という分け方が出来そうだ。サルトルの『嘔吐』という小説に怪物的な対象物としての「物」というものが出てくる。この小説を読み通したわけではないが…どうもそうらしい。その「怪物的な物」と遭遇する主人公は酷く孤独な人物らしいが、その対象物は紛れも無い「現実」「対象」「物」として現れる。それに対して埴谷雄高に『意識』という小説があるらしい。これは全く読んでいないが、「瞼の上を強く指で押した時に瞼の裏に現れる「白い光」、それを「意識」と呼ぶ…」というような小説らしい。この暗黒の内部から自発する「白い光」という「意識」。 サルトルの「物」と埴谷の「意識」…しかしこれはあまりにも似ている…というかほとんど同じものとの印象も受ける。「心」「意識」と「対象」「物」の往復は哲学史的には観念論、形而上学と唯物論の往復のようなものなのだろうか。「精神」と「物」。「夢」と「現実」。ヘーゲルとマルクス。埴谷雄高とサルトル。「狂気」と「物自体」…。「高次」では「ひとつ」であるようにも思う。