統合失調症はかつて精神分裂病と言われていた。「分裂」は「人格の分裂」ではなく「連想の分裂」であると読んだ記憶がある。「連想の分裂」とは何であろうか?例えば「犬」という言葉に「犬」を思い浮かべる。その「犬」が自身の飼い犬であれ図鑑で見た犬であれテレビや映画で見た犬であれ。それは「通常」「普通」である。しかし「犬」という言葉の意味が「アメリカへ行って下さい」とか「雪山登山は危険です」とか「白くて老いたメス猫」という意味だと本気で信じてそう連想し受け取る人がいたらどうだろうか。それは一種の「異国の言語を操る外国人」なのであろうか。野球を例に出してみよう。監督やコーチから出される「バント」や「ヒットエンドラン」や「盗塁」のサイン。それが「土下座」「審判を殴る」「死んだ振り」というサインだと本当に思っていて実行する人物がいたらどうだろうか。そして生活のすべての局面、ひとつひとつあらゆる事象、それらの事象から連想されるべき「正常」な様々な事象。その繋がりかたが「崩壊」「破綻」していたらどうだろう。例えば信号機の「赤」「黄」「青」それが「牛丼を食え」「カツ丼を食うな」「一番近い建物の階段をなるべく速く駆け登れ」というメッセージとして受け取られるという人物がいたらどうだろう。黒い雲が雨の兆候ではなく別の兆候であると認識する人物がいたらどうだろう。キャッチボールをする親子やヨーヨーをする子供を街角で見かけた時、「そのままの意味」ではなく「別の意味」として受け止めてしまう人物がいたらどうだろう。「言語の意味作用の連鎖」の崩壊。人間や意識や精神について色々考えさせられる。
「エンターテイメントと芸術」の一致。ありそうな事態である。人の評価など全く気にせず、やりたいことを思いっ切りやった結果、大衆の大きな支持を得る、ということ。反対に、計算に計算を積み重ね、当てよう当てようヒットさせようヒットさせようとして大失敗する。これもありそうなことだ。そう考えてみるとどちらも人間的な自然な行為であり別に非難すべきものでもない気がする。「エンターテイメントと芸術」。この問題。母親が子供に絵本を読み聴かせる。その時の母親の子供への「伝えようとする想い」に邪心は無いだろう。「伝達の意志」全てが不純な訳ではない。自分の世界にどっぷりつかった表現が、妙に予定調和的、自己保身的で「刺激」、「過激さ」に欠ける場合もありそうだ。「エンターテイメントと芸術」とは一体何を指し示しているのか?。「社会から孤絶した精神が自分の魂に向き合い何かを掴み出す」という「芸術」。社会的に通用、流通しやすい「商品」を綿密な計算の結果生み出す「エンターテイメント」。この前テレビで西部すすむが「リミット・サイクル」という数学用語に触れて、「政治」と「文学」の相いれなさについて語っていた。「政治」の言葉で「文学」を語り、「文学」の言葉で「政治」を語ってみることを提案していた。「エンターテイメントと芸術」は「政治と文学」とも言い換えられるのかもしれない。社会的政治的経済的な次元と個人的プライベート的「実存」の次元。往々に人はどちらかに偏りどちらかを欠落させがちなのかもしれない。社会的な職人と、個人的な芸術家。芸術家の魂の叫びが新しい政治を生み出し、職人的なテクニックが芸術作品に革命をもたらす。そんな「交流」に可能性があるのかもしれない。
しかしAKB48やラスコーの壁画、ダヴィンチの絵、シェイクスピア、ドラえもん、ドラゴンボールなど「エンターテイメントか芸術か」という問いは無意味にも思える。売れたらエンターテイメント、売れなければ芸術、という定義も奇妙に思える。しかしその「分割」は確かにあるようにも感じる。吉本隆明さんのいう「表現」「表出」の区別は人間にとって人生にとって生命にとってひどく重要なものとして胸に迫り腑に落ちるものがある。私自身の世界観や人生哲学にも深く食い込んでいる問題だ。試しに「エンターテイメントと芸術」を「娯楽とアート」と言い換えてみるか。後者のほうが何かしらの「高級感」があるのだろうか。あるいは何らかの「過激さ」。物の見方を根底的に揺さぶるような種類の「過激さ」である。「日常」や「現実」から離脱させるような「芸術」や「アート」の力。それは何か「ハッさせる」ものである。しかし「娯楽代表」「芸術代表」の作品を挙げるのは難しい気もする。AKB48はビートルズは中島みゆきはブルーハーツは尾崎豊はアートなのか娯楽なのか?しかし芸術やアートに対し、特別の気概、こだわりを持って向き合ったアーティストたちも多いと思う。例えばゴッホや岡本太郎やつげ義春など。あまり売れる事とかマーケティング的なものに固執していたとも思えない。勿論売れたり評価されれば嬉しいと思うが。しかし「大衆に広く受け入れられること」や「誰か他人を喜ばせること」「社会的評価を得ること」を創作の基準にしていたようには思えない。何か全く別なものと向き合い、闘い、乗り越え、達成しようとしていた。そしてとても大きな達成感や充実感や満足感や幸福感を感じていたのだろう。それは「売るために売れるものを作り売れたら成功」というものとは違う。「エンターテイメントと芸術」そのそれぞれの相手側への批判としては「自己満足」「不純」というものがあるだろう。一方からは社会に開かれておらず自分の世界に閉じこもり陶酔している社会的には「邪魔」で「目障り」で「迷惑」で「役に立たない」「無益」な存在。一方からは時代や社会や流行や大衆に迎合した自分の信念やこだわりや美学や価値観や魂や心や感情や感性を喪失した堕落した下品な意味の無い有害な不愉快で不自由な存在。お互いにそう思いたびたび衝突するのだ。「売れることが価値基準」「自分の心に響くことが価値基準」。それらが両立、一致している場合もあるだろう。