ということは「内」とは何か、「外」とは何か、とう事だ。外とは人々が暮らす社会、世界、外界の事、「内」とは、自分の世界、孤独な世界、内面の世界、と言えそうだ。これは誰もが行き来している事だろう。会社や学校で人と関わり、またプライベートな孤独な時間も楽しむ。といったところだ。しかし極端にどちらかに振れる人々もいるだろう。絶えず誰かとコミュニケーションを取っていなければ不安だという孤独恐怖症の人物。あるいは逆に対人関係に疲れ果てたコミュニケーション恐怖症の人物。「内と外」「外と内」、それは「対象」と「意識」とも言い換えられるだろうか。「他者なき対象」「意識を対象として意識する」というものもあるだろうが、取り合えず「物」や「対象」と「心」や「意識」という分け方が出来そうだ。サルトルの『嘔吐』という小説に怪物的な対象物としての「物」というものが出てくる。この小説を読み通したわけではないが…どうもそうらしい。その「怪物的な物」と遭遇する主人公は酷く孤独な人物らしいが、その対象物は紛れも無い「現実」「対象」「物」として現れる。それに対して埴谷雄高に『意識』という小説があるらしい。これは全く読んでいないが、「瞼の上を強く指で押した時に瞼の裏に現れる「白い光」、それを「意識」と呼ぶ…」というような小説らしい。この暗黒の内部から自発する「白い光」という「意識」。 サルトルの「物」と埴谷の「意識」…しかしこれはあまりにも似ている…というかほとんど同じものとの印象も受ける。「心」「意識」と「対象」「物」の往復は哲学史的には観念論、形而上学と唯物論の往復のようなものなのだろうか。「精神」と「物」。「夢」と「現実」。ヘーゲルとマルクス。埴谷雄高とサルトル。「狂気」と「物自体」…。「高次」では「ひとつ」であるようにも思う。