新宿ピカデリーで『アウトレイジビヨンド』を観て来た。なかなか映画館の場所がわからず見つけるのに少々苦労した。映画館の場所を伊勢丹にあった看板の地図で確認すると近くのローソンでLチキンを二つ買ってピカデリーへ。前作は公開時に映画館で観ていた。北野映画は元々大好きである。ビートたけしは私の十代のカリスマでもある。それは置いておいて…。映画でも何でも「暴力」を描く場合、そこに何らかの「情緒」が介在する。介在というか、例えば「感傷」例えば「爽快感」。しかしこの映画にはない。何があるのか?それを表現するのは難しいが、それがこの映画の核心であり、北野映画の核心であり、たけし思想の核心であろう。何とか表現しようとするならそれは、「現実」というか、いいも悪いもない、悲しいも気持ちいいもない情け容赦ない暴力の「現実」があるというか、何かそのように動くことをプログラムされた機械たちが活発に動き回っているだけというか、ケジメをつけるとか筋が通るとかそこには別段深い意味や感情や美学や男の生き様は無く、「ただそういうふうにプログラムされた機械たち」がただ「そのように動いているだけ」の世界。そこには確かに複雑なのかシンプルなのかもはやわからない「権力欲」というものはある。しかしそれは「薄よごれた欲望」でも「壮大な夢」でもない。「単純に悪い」「底抜けに悪い」「単純に恐い」そんな世界である。しかしそんな世界にふと、「可笑しみ」や「かわいらしさ」や「悲しさ」や「熱さ」が現れる。しかしもはやそれは一体全体どこから現れたのかさっぱりわからないようなものである。ただただ現実が暴力がゴロゴロ転がっていく。その車輪から飛び散った砂粒のひとつがたまたま悲しく見えたり可笑しく見えたり熱く見えたり可愛く見えたりする感じである。本来的に目の前にあるのはそのようなものでは全くない、無慈悲な現実の充実した振る舞いのようなもののみなのである。それを達観した視線とか神の視線のようなものとも言えるだろうが、達観とか神とかいうにはあまりにも生々しく残酷でありバカバカしく苛酷であり無秩序であり出鱈目であり見るに耐えない。しかしそれは善悪や美醜を超えた限りなく尊く美しく価値ある「現実」を示している。この「映画の現実」を体験出来るということは本当に素晴らしい奇跡的なことではないだろうか。
ここで「死」や「狂気」の問題について考えてみたい。哲学や思想や文学や芸術の文脈で「死」や「狂気」が賞賛されることがよくあるが「実際の狂気」が苦しいばかりで不毛なもの、という話も良く聞く。反面「狂っている真っ最中」は「気持ちがいい」とか病気な治ることで作品が作れなくなる。という話も良く聞く。私の体験ではネットで見た「鏡に向かって「お前は誰だ」と何度も言うと気が狂う」というのを試しに少しやってみたらマジでヤバイ感じになったので慌てて回復を図った覚えがある。これはいわゆる「自己同一性」の破壊、解体、崩壊、揺らぎ、といったようなものなのであろう。哲学や思想の文脈で何かと「悪玉」にあげられる「自己同一性」である。私自身それらの思想に強く惹かれ続けている。まさに「自分らしさの檻」である。しかしリアルに「自分」が崩壊しそうになればそれは耐えがたい苦痛、不安、恐怖、不毛、虚無である。まさに「終わりですよ。」である。持ち上げられる「死」もそうだろう。人はしばしば「死」や「狂気」に強烈に魅了される。しかし慎重にならなければならない。危険な劇薬の側面が確実にある。「死」や「狂気」は哲学や芸術にとって、また人生において非常に重要であるが繊細な問題である。坂口安吾が「正しく堕ちよ」と言ったように「正しく」、「死」や「狂気」に向かう必要があるだろう。この本でも「世界」や「自分」の「同一性」からの「脱出」がテーマになっていると言える。「ひとつの世界」「ひとつの自分の意識」を何かが保証している。何かを隠蔽、抹消することで成り立っている「この世界」や「この意識」。世界を感受する私の意識。私へと伝達される様々な情報。それら様々な情報のひとつひとつに個有の「リズム」「速度」がある。しかし「意識」はそれら「複数のリズム」を「複数のリズム」と捉えずに(隠蔽し)「ひとつのリズム」「ひとつの現実」へと書き換える。それは意識の中でも起きている「複数の欲動」を「ひとつの欲動」に書き換える。複数のリズム複数の欲動を隠蔽、抹消することで安定したひとつの世界、ひとつの意識が立ち上がるのだ。そして現れたひとつのシステム。システムは矛盾を宿命づけられている。追放された矛盾はシステムをまるで神のように裏から支えることになる。この事態が否定神学と呼ばれる。微細なひとつひとつの情報の欲動のリズムの違いに注目する。それらのリズムのずれ、衝突に目をこらす。この辺まで読んだ。
多分14年前、本が出た頃に買ったと思う。それから14年、やっと半分読んだ。柄谷行人やドゥルーズをスラスラ読むようなスーパー頭脳の持ち主へではなく、「哲学とか思想とか何かとっつきにくいなあ」という人に向けて私なりに解説というか紹介してみたい。そんな人々にはきっととっつきにくいだろう。私もとっつきにくかった。難儀して読み進んでいる。しかしなかなか興味深い。どこから話始めようか。例えばミスチルの歌詞に「自分らしさの檻の中でもがいてるなら僕だってそうなんだ」というのがある。昨日やってたMステ3時間SPできゃりーぱみゅぱみゅの歌った「ファッションモンスター」の歌詞にも「自分の心からも自由になりたい」というようなものがあったと思う。また、GLAYにも「ここではないどこかへ」という歌があったと思う。「この世界」や「この自分」に不自由なものを感じ、嫌気がさし、「別の世界」や「別の自分」への「脱出」を夢見る、というのは広く共有されている感覚ではないだろうか?哲学や思想や芸術でも全てとは言わないが大きなテーマのひとつではあるだろう。おおまかに言ってこの本もそのような試みのひとつであるのであろう。人は不安になる。学校や会社での評価が全てだと思ったらやっていけないと思ったりもするだろう。そんな時「神様が認めてくれていますよ」とか「霊界の階層の中でのあなたの位置はここですよ」というような考え方に救いを求めたり、それで安心する気持ちもわからないではないし一概に否定すべきではなくそれでまるくおさまっているならばそれでいいのかもしれない。しかし「近代」なのか「現代」なのか知らないが、ニーチェが「神は死んだ!」と言った以前なのか以後なのか知らないが、「科学的」「理性的」といったらいいのか「リアリズム」なのか、そのような考え方は「迷信」「非科学的」ということで否定されたり効力を失って来た歴史があるだろう。そして人間は「科学的」に「世界」や「社会」や「人間」や「心」の分析を始める。それは偉大な人類の進歩をもたらしたとも言えるだろう。しかしどうしても「世界」や「人間」「心」は「論理」では割り切れないことが出てくる。するとその「割り切れなさ」や「矛盾」が「消滅したはずの神様の位置」におさまり、再び我々を神秘的に支配、拘束、制限してしまう。そのような状況を「否定神学」というらしい。