ここで「死」や「狂気」の問題について考えてみたい。哲学や思想や文学や芸術の文脈で「死」や「狂気」が賞賛されることがよくあるが「実際の狂気」が苦しいばかりで不毛なもの、という話も良く聞く。反面「狂っている真っ最中」は「気持ちがいい」とか病気な治ることで作品が作れなくなる。という話も良く聞く。私の体験ではネットで見た「鏡に向かって「お前は誰だ」と何度も言うと気が狂う」というのを試しに少しやってみたらマジでヤバイ感じになったので慌てて回復を図った覚えがある。これはいわゆる「自己同一性」の破壊、解体、崩壊、揺らぎ、といったようなものなのであろう。哲学や思想の文脈で何かと「悪玉」にあげられる「自己同一性」である。私自身それらの思想に強く惹かれ続けている。まさに「自分らしさの檻」である。しかしリアルに「自分」が崩壊しそうになればそれは耐えがたい苦痛、不安、恐怖、不毛、虚無である。まさに「終わりですよ。」である。持ち上げられる「死」もそうだろう。人はしばしば「死」や「狂気」に強烈に魅了される。しかし慎重にならなければならない。危険な劇薬の側面が確実にある。「死」や「狂気」は哲学や芸術にとって、また人生において非常に重要であるが繊細な問題である。坂口安吾が「正しく堕ちよ」と言ったように「正しく」、「死」や「狂気」に向かう必要があるだろう。この本でも「世界」や「自分」の「同一性」からの「脱出」がテーマになっていると言える。「ひとつの世界」「ひとつの自分の意識」を何かが保証している。何かを隠蔽、抹消することで成り立っている「この世界」や「この意識」。世界を感受する私の意識。私へと伝達される様々な情報。それら様々な情報のひとつひとつに個有の「リズム」「速度」がある。しかし「意識」はそれら「複数のリズム」を「複数のリズム」と捉えずに(隠蔽し)「ひとつのリズム」「ひとつの現実」へと書き換える。それは意識の中でも起きている「複数の欲動」を「ひとつの欲動」に書き換える。複数のリズム複数の欲動を隠蔽、抹消することで安定したひとつの世界、ひとつの意識が立ち上がるのだ。そして現れたひとつのシステム。システムは矛盾を宿命づけられている。追放された矛盾はシステムをまるで神のように裏から支えることになる。この事態が否定神学と呼ばれる。微細なひとつひとつの情報の欲動のリズムの違いに注目する。それらのリズムのずれ、衝突に目をこらす。この辺まで読んだ。