渋谷のファスビンダー映画祭に行って来た。『あやつり糸の世界』を観たのだが非常に面白かった。ファスビンダーといえば名前だけは15年ぐらい前から知っていたけどなかなか観るチャンスが無かった。中原昌也さんのイチオシ映画監督ということで知っていたのだ。何かの雑誌の記事で読んだのであろう。今回の映画祭、前日ぐらいにツイッターか何かで知ったのだ。それで今日やる『あやつり糸の世界』をGoogleで検索。「マトリックスみたいな話」との情報を得て「こりゃおもしろそうだ」と思い観に行くことにしたのだ。詳しい内容に触れるのは止めておくが、本筋以外の事で言うと出てくる女性たちがとても美しいということと車や家具などのデザインもおもしろいということや「小ネタ的なもの」がおもしろいというのもあるが、本筋的なものはその話、「メタフィクション的な話」だろう。「メタフィクションとは何か?」と問われても困るものがあるが、まあ私の認識としては押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』とか『マトリックス』みたいな話。というぐらいの認識であるが、今ちょうどというか未だに『存在論的郵便的』を読んでいる途中で(7割ぐらい)、ハイデガーとか出てくるんだけどファスビンダーもドイツの人だし、ハイデガーの哲学における「現実」と「現実を超えるもの」の話が「メタフィクション的なもの」とつながらないともいえないだろう。何か時代的なもの「20世紀的問題意識」みたいなものもあるのだろうか。あたりまえだと思っていた日常や現実の崩壊。基盤の消失。意味や正当性への不信など…。ヨーロッパにおける巨大な戦争の影響もあるのだろうか…。ともかく「あたりまえだと思っていた現実」「不動の現実」に揺さぶりがかけられる。子供の頃などに想像でこの世界はものすごくでかい巨人の作った箱庭みたいなものなのではないかとか自分以外はみんなロボットなのではないかとか奇妙なことを考えたりすると思うが、よく考えたら様々な民族に伝わる「創世神話」などもそんな想像の類いな気もする。「神様」か「科学者」かの違いで。そう考えると何か人類文明が「宗教の時代」から「科学の時代」になったというのが反映しているのかもしれない。神を殺してその位置に科学者がついたのだ。しかし「存在の疑念」を消し去る事はできず「この世界を裏支えする存在」を求めるのである。「存在の不安」「存在の疑念」は人類と共に古く太古の昔は「神」が支えてくれていた。しかしなぜだか神様は舞台から退場。それは必死で神の存在を証明しようと諸学門を発達させた結果うっかり神の不在を証明しかけてしまい、あわてて神の代理人に科学者が成りすますという光景にも見えなくもない気もしないでもない。「超越的な原理」に人間が突き動かされているという感覚。それは真実なのか妄想なのか信仰なのかわからない。その超越的な原理というものも神由来なのか人間由来なのかもわからない。しかし「強烈に命令する」「圧倒的に法を与える」「絶対的に道を示す」、「神」の存在が希薄化した現代という時代に我々はどう生きているのか。しかし私自身神社のパワースポットにパワーをもらったりしているのであるが。それはともかく神退場後の人間の理性。理性退場後の人間の無意識や狂気、ポイントはどこであろうか。この映画『からくり糸の世界』にも哲学者の名前が出てくる。プラトンとアリストテレス。この私、この現実は「偽」であり隠されて世界の真実はあるという思想。そんな思想の批判や徹底化が哲学の歴史なのかもしれない。「実感」「この私この世界が確かに本物であるという実感」「私は確かに存在しているという実感」「この世界は本物であるという実感」何か他愛もないような感覚を我々は渇望しており、そのために苦しみもがき発狂、自殺さえしてしまうのである。「現実の虚構感」それは知的興奮をもたらすものでもあり精神的不安の予兆でもある。それは極めて現代的な感覚なのかもしれない。科学技術の爆発的な発達が現実の虚構性、無根拠性を暴露してしまった。人類はかつてない不安の只中にいる。どんな新しい神も「捏造」としか感じられない時代われわれは何にすがってこの「無根拠の大海」を渡って行くのか。メタフィクション作品がわれわれにもたらす清新な感動にそのキーがあるのかもしれない。
指原莉乃の奇妙な魅力に魅惑され、いつの日かさっしー主演の『壮大なバカ映画』の制作を夢みる私。総選挙で投票したのは生駒ちゃんだけど…。しかし映画の主演にはさっしーを使いたい。怪物女優さっしーを。その狂気を孕んだ瞳。ド変態を感じさせる顔つき。これは世界的な女優になる。そんな妄想をしているのだ。だからこの映画の監督は夢を叶えた男である。たいへん羨ましい。だからつまらなければ優越感に浸り、面白ければ参考にしよう。そんな気持ちで見た。結果はどちらでもなかった。「思考の材料を無限に引き出せる」。そんな映画だった。表層的に観ればさっしーはまあまあかわいく撮れてるしギャグも落第点ではないし話の展開も悪くない。ちなみにラストに流れる曲は最高である。そんな映画である。しかし少しだけ努力してこの映画から「問題」を引き出そうとすると莫大な、巨大極まりない問題が引き出されるような気がするのである。つまり思考を刺激されるのである。つまりいい意味で「考えさせる映画」なのである。さっしーは不運に見舞われる。しかしそれは不運なのか幸運なのかわからない。まさに「人間万事塞翁が馬」である。絶対にあり得ないような「幸運」がその時のブー子には「不運」だったり、あり得ない「不運」が「幸運」に結びついたりするのだ。ひとつの物事、現象も、意味づけや考え方でまったく変わるし、それが何に結びつくかわからない。スティーブ・ジョブズの母校の大学での演説のようだがその時は点でしか無いものが後から振り返ってみると運命のような線を描いているのだ。どんな物事も両面あるとか考え方で世界は変わるとかいうメッセージを受け取れるのだ。しかしそれだけではないのである。やたらと「金の話」が出てくるのがポイントである。ユースケ・サンタマリアはバイトを18個掛け持ちしている。これはにっちもさっちもいかない経済的理由である。虚栄とも言えるが。「虚栄」とか「偽物」とか「本物」とかもキーワードだ。お金の話に戻ると考え方を変えるぐらいではいかんともしがたい面がある。社会構造や様々な前提条件の壁が分厚いのである。妄想の世界でどうにでもなるとも言えるがユースケがバイトを18やっている事実に顕著である。人生を強烈に縛り付けるのである。映画後半のエピソードにその極限が現れる。それは人間の考え方や努力を超えた「現実」のようにも思われる。そこに「運、不運の次元」が衝突するのである。「人間の努力や考え方や意識の次元」「経済的次元」「運、不運の次元」などのテーマが浮かび上がる。そして「虚飾、偽物、本物の次元」である。ユースケはブー子の「偽」の父である。ブー子は憧れの人に会うために自分を変えようとし着飾ったりする、その「虚飾」「虚栄」。ユースケの経済的「虚栄」。すべてを受け入れているかのような母。繰り返されるパロディやものまね。いたるところに繁茂する「虚像」。ブー子がなろうとする自分も会おうとする人も虚像であった。現実に向き合い、現実を受け入れることでブー子の人生は好転した。私もさっしー主演で吉田喜重のような芸術性、『台風クラブ』や『転校生』のような青春の鮮烈さを持った「壮大なバカ映画」を撮りたいものである。
小説のようなものを書き始めたのは20歳くらいからだったかな。もともと「ナンセンス」とか「シュール」が好きで小説もそんな感じ。10代の頃、私の「シュール師匠」はラジカルガジベリビンバシステムとか蛭子能収とか劇団健康かな。小説は芥川龍之介の『歯車』とか太宰治の『人間失格』とかドストエフスキーの『地下室の手記』とか好きだった。中原中也の「ダダ音楽の歌詞」というのもあった。20代の頃は町田康や中原昌也に影響を受けた感じだ。中原昌也は今も愛読している。昨日も文學界の連載を三作読んだ。図書館への返却が昨日だったため。古代文明の話と司馬遼太郎の話とオリンピックの話。どれも最高に面白かったが、どれかといえば古代文明か。中原昌也のものはほぼ読んでいるが(あらゆる場所に~とか作業日誌はほぼ読んでいないが)その中でも一番かも。これまでは大集合!ダンサー&アクターズが一番だったかな。どれもみな面白いのだけれどもね。初期もいいけどパソコンタイムズ以降更に良いという印象。私の話に戻りたいがどこまで話したか。とにかくなにか「わけのわからないもの」とか「無意味」への嗜好はずっとある。ほとんど哲学や思想と化している。私の中核と言ってもいい。「ナンセンス語」のようなものに惹かれ、14歳か15歳の頃「ゾウアザラシの土ふまず」という言葉を作り悦に入っていた。今もその延長にいる感じだ。28歳から31歳くらいまで「スランプ」なのか何なのか書けなかった。1998年の初め頃に書いた渾身の100枚の小説があり(私は27歳になる前くらい)その達成感、到達感、満足感、充実感といったものがあり、その作品のその先、といったらちょっと簡単なものではないと感じていただろうか。何かしら異常な修業が必要とも思った。その気持ちが1999年の一人暮らしへ繋がったのかもしれない。当時「修業」として考えていたのは(今もだが)「本、路上」である。これは「本を読むこと」と「街で何かに出逢うこと」である。その「街」とは「都会」でなくてはならない。とか思っていた。「街に自分を投入する。自分に街を投入する」と考えていたのであった。それは今でも思っている。(…)というわけで、どうなった?その「達成感」を感じた小説から4年経ち、ふとその小説を読み返してみたら「物足りなく感じた」。これは自分でもびっくりした。「そんな筈はない」と。それほどまでの「自信作」だったわけだ。最高の到達点だったわけだ。「駄目」だとは思わなかったけど「何か物足りなかった」。方向や質、その小説の立ち位置はいいのだけれど「もっと行ける」「もっと跳べる」と思った。始めは小説の真ん中を削ったりいじってみたけど「不足感」は消えない。仕方がないから「新しく書くことにした」それが2002年の春頃のことである。そして何作かある程度満足しながらも何か「模索中」といった感じで書き上げた。そして2003年末に書いた作品で何かを掴みかけたと感じ、2004年初め頃に書いた作品で「新しい場所に到達した」と感じた。何かを掴んだと感じた。その後何作もこれがいつまで続くか心配だった。いつ書けなくなるかと不安だった。自分が到達したと感じた「このレベル」を何とか維持したいと思った。「その先、さらに先」とも思うがとりあえずこの到達した場所を大事に守りたいと思った。そして今年2014年。2004年から2011年頃までの小説18作品をまとめた作品集を自費出版する予定だ。全部で50冊の予定。新宿模索舎や中野タコシェに置いてもらう予定。大阪文学フリマでも販売予定。タイトルは『映画館と公園に放置された長いイモの事』値段は1200円の予定。ページ数は250ページくらいになる予定。ピンク色の装丁になる予定。とりあえず四作ほど冒頭部分をここに公開してみたい。

「映画館と公園に放置された長いイモの事」

 広場の片隅には苦しみ悶えた跡が生々しく残されたままの彫像が無造作に放られていた。プールサイドの鍵穴の附いた部屋から朝早くに担ぎ出されてきた人物の白い上着のようにぎこちなく石化していた。夢中で中心部にストローを突き刺して吸い尽くすようにも思えたその行動に僕の彼女はNGを出した。車の後輪から主に生まれ出るエネルギーが頭部を満たし乱し、暴飲暴食を推奨するかのような口振りにも誤魔化されて宇宙を遊泳するかのような身振りで愛を表現しようとも裸体の貴族主義が障壁となり愛に到達せずに終わってしまうのであった。

「巨乳外国人の怪」

 注意書きが施された山吹色の屋根の連なりが用心棒の手配を遅らせた証拠として目の前に突き付けられている。旧態依然としたろくろ首の悩み事のせいで本日の午後の生活は楽々と越えられた筈の日常が怪異なものとして事件性を与えられ泣くまで愛を離す事もできずに戸惑い立ち尽くす。鰐の肺が出来たばかりの小屋のてっぺんに括り付けてある。ボーイの宣伝費を増やして行く為には何をすればいいのだろうか。

「陽当たりの良い場所が移動して行く。」

 酒場からの帰り道、耳馴染みのある演歌が民家から聴こえてきた。思わず立ち止まるということもなくそのまま通り過ぎて歩道橋を渡るといつもの築三十八年のアパートの一室へと帰るのであった。水槽の中のタガメ君は元気かな、と思って水の中を覗いてみた。落語のカセットテープが散らかっている場所の中に立ち僕は水槽の中を見ていた。かつらのコマーシャルがテレビに映し出されている。もみあげの長い男連中が坂道をゴロゴロ転がる輪ゴムやコンドームやオットセイの群れの中を全身汗まみれで夢中で駆け回っている。隣のラジオからは巨人戦が流れている。誰かの三安打目はツーベースであるそうだ。欲深い人間は損をするのだろうか得をするのだろうか。そんな想いが頭をかすめた。

「アクマニア星人」

 巨大な目玉が体の真ん中についた星人。それがアクマニア星人だ。中日ドラゴンズの選手が隠れ家としてよく利用するという噂を聞きつけて私はその町へと向かった。テント小屋のてっぺんに取り付けられた避雷針が斜めに突っ立っている。雲行きの怪しい昼下がりのK町一丁目で私はコーヒーを啜っていた。窓の外にはヒゲを書き込まれた中年男性がバス停のベンチで寝込んでいる。いびきはここまで聞こえてはこないが随分と大きないびきをかいているように思われる。薄いグレーの半袖シャツが肉でぱんぱんになっている。そのはげづらのような頭髪からは真っ白い水蒸気がもうもうと立ち昇っている。曇り空からは小雨がぽつぽつ降って来たようだ。私は喫茶店から出ると止めてあったバイクでその空き家へ行った。空き家の内部では狂宴が繰り広げられていた。ムチャクチャに書き殴られた半分紫色になった肉体を白いコンクリートの壁にぶつける若い男女達。頭部のはげづらは分厚い鋼鉄になっており頭頂部の太い毛も非常な程に艶を湛えて黒光りしていた。





こんな感じです。
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