テレビでこの歌詞についての解釈がやっていてなかなか興味深かったので私も考えてみたい。テレビでは「僕は君だけを傷つけない」の「君だけを」の「を」の部分が普通は「は」だとし、「僕は君だけは傷つけない」となるという。そうだと「君」は傷つけないけど他の人は傷つける。傷つけるかもしれない。となるという。いろいろ試してみたい。「僕は君を傷つける」と「僕は君は傷つける」。前者は「君」を傷つける。後者は「君」だけを傷つける。「僕は君を傷つけない」と「僕は君は傷つけない」だと前者は「君」を傷つけず、他人は「?」だ。後者は「君」を傷つけず他人は傷つける。もしくは傷つけるかもしれない。となるだろう。「君」を「水」、「傷つける」を「飲む」、「傷つけない」を「飲まない」に代えてみる。「僕は水だけを飲まない」この人は水を飲むのか飲まないのか?水は飲むけど他のものも飲むのか?「僕は水だけは飲まない」この人は「水」は飲まないが他のものは飲むと言っているようだ。しかし「水」と他のものと一緒なら飲むと言っているようにも受け取れる。「水」と「オレンジジュース」「水」と「焼酎」など一緒ならば、あるいは混ぜてなら飲むと言っているのかもしれない。「僕は水だけを飲まない」のほうはどうか。水は飲まずに水以外のみを飲むとも受け取れるが「水だけだと飲まない」と言っているようにも受け取れる。「水」にカルピスやオレンジジュースの粉を入れたら飲むのかもしれない。炭酸水なら飲むのかもしれない。はじめに戻る。「僕は君だけを傷つけない」とはどういうことか?君だけではなく他の人も傷つける。ということなのか。君は傷つけないけど他の人は傷つける。傷つけるかもしれない。ということなのか。君だけを傷つけるわけじゃない他の人も傷つけてるんだよ。ということだろうか。君だけでは傷つけないけど他の人やものと一緒ならば、あるいは混ぜ合わされた状態のものならば傷つける。ということなのか。両親と友人と一緒に歩いている「君」。「熊」や「造船所」と一体になった「君」なら傷つける。ということなのだろうか。確かに君は傷つけないけれども他の人は傷つける。傷つけるかもしれない。と理解したほうが「収まり」はいいかもしれない。しかし少しひねると世界は変わる。「読解」のエンターテイメントを見せてもらった気がした。
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これは昨日観た映画だがこれも凄かった。今日もファスビンダー映画祭に行き『不安が不安』『マリア・ブラウンの結婚』『ベルリン・アレクサンダー広場第1話』を観たが。どれも非常に面白かったが続けて観ると濃密すぎて混乱するというかぼんやりしてしまう。とりあえず昨日観た『自由の代償』の感想を書いてみたい。『マルタ』では女主人公が支配されることを望みつつも逃走を図り逃走に失敗する。『自由の代償』では主人公フランツ・ビーバーコップは「自由な場所」にいるように思える。アングラ感漂うゲイコミュニティで貧しくとも楽しくやってるように見えるのだ。しかもロトで30万マルク当たって大金も手に入れた。まさに「自由」に見える。作品解説ではビーバーコップがブルジョア階級から搾取されると書いてあったが単純に騙しとられた感じだ。それに「ブルジョア階級」と言っても常に倒産寸前の綱渡りでそんなに大きな会社でもなさそうでなかなか大変そうだった。しかし超貧乏な人々とそこそこ上手く行ってる会社の経営者の人々とは随分違うということだろう。食事場面でのマナーなどでそれは表されていた。気楽な貧乏人ワールドというか気取りの無い厳粛さのないルール無用のなんでもありの振舞い。それは「ブルジョア空間」では見過ごせない無礼な行いなのだ。ファスビンダーの映画を何本か観てこれは良く出てくるテーマに思える。高尚な教会音楽みたいな音楽と下品で低俗で肉体的なロックや歌謡曲の対立みたいなもの。「自由」といえばそんな「ロック」的なものだがビーバーコップはその「代償」を払うことになる。金を騙し取られ街に放り出されたビーバーコップは破滅へ一直線だ。さっきも書いたがこの映画は階級間の搾取というより無知でお人好しの主人公が大金を騙し取られる話と言った感じだ。映画を観たあと思ったのだがビーバーコップはまさに「天使」なのではないか?本来宗教画などに描かれる天使は少年というか幼児であるが映画のラストシーンで本来天使的である少年がビーバーコップに非道な行いをするところなどはファスビンダーの皮肉が効いていると感じる。ビーバーコップの食事シーンでの無垢な行いなども「天使的」である。それは「上流階級のルール」に「禁じられた自由」を野蛮に叩きつける。というか、軽やかに不意に放つ。ビーバーコップは現代の天使である。と言ってみたくもなる。現代の天使は悲劇的で惨めな容貌をしているのかもしれない。
渋谷のファスビンダー映画祭へ再び行って来た。『マルタ』と『自由の代償』を観た。どちらもとても面白かったのだが『マルタ』について書いてみたい。非常に怖い映画で、ある意味あまたのホラー映画とかより全然怖いと思う。何かしら精神的に不安定なものや性に対する恐怖心や秘められた欲望を感じさせる女主人公マルタが結婚相手に追い詰められる話である。私が思ったのは社会的に明白ではない「悪」や「罪」があるということだ。マルタの夫ヘルムートがマルタにした行為は社会的、法的には罪と認められないかもしれない。もしかしたら正常、あたりまえ、普通の振舞いに分類されてしまうかもしれない。またあるいは「良き夫」と判断されてしまうかもしれない。そんなある意味日常の枠の中にある暴力や支配や抑圧の問題なのだ。学校や職場でのいじめや異常な人間関係の支配力、束縛力、しがらみ、抑圧に苦しんでいる場合などだ。この映画の場合は「夫婦関係」なのだが犯罪とは認定されない認定されづらい人間関係の圧力で苦しんでいる人は多いだろう。この映画で描かれるそれは実際の犯罪や明白な暴力以上にグロテスクにも感じられる。例えば恋人間や伴侶間である程度嫉妬したり束縛したり趣味や生活スタイルを押し付けるような事はあるだろう。しかしそれが微妙に、しかし決然と逸脱した時なんともいえない不自由さや不快感や恐怖や憎しみや怒りや嫌悪を感じる。しかし恋人関係や結婚生活の崩壊の崩壊を怖れてズルズルと深みにはまるのだ。マルタは決して愚かな女性ではない。聡明で我慢強い女性であるし逃げようともしたのだが…。しかし上映後に買って読んだパンフレットの一文にあったファスビンダー自身の解説では「マルタは望んで支配されようとした」とあった。「支配と教育」の裏腹の関係にも言及していた。確かにマルタは夫に父親を重ねて見ており「完全なる支配」を望んでいたのかもしれない。人間心理や人間社会の奇妙さを深く考えさせる映画だ。