優しさがいちばん -91ページ目

聖書の自由な情報

いま中国ではキリスト教は弾圧をうけているらしい。
かっては布教のためには
命をかけて聖書を密輸した時代があった。
また、殉教にも価値があると考えているクリスチャンもおおかっただろう。

いまは、膨大な情報がWWWをとおして得られるので
基本的には(すくなくともインターネット」ユーザーはその必要はない。

あふれる情報のために、逆に、勉強するひとの数も大幅にへったことだろう。

大問題/宗教者の大きな責任

いまは戦争は正当化されていないので
だれも本気でいわないが
もし、宗教のあいだの主張が相反していると大変なことになる。

たとえば、イエスキリストは完全に一神教だ。この主張がただしい場合には
他の数億の他の宗教の宗祖は詐欺師ということになる。
その逆も正しく、
世の中の宗教者は一人を除いて、大嘘つきでだまされている人々の規模は数億人、数十億人
にのぼる。
そのための殉教者への責任をどうとるか?

愛とやさしさ/文化の違いか?

”愛”の理解と行動は日本人には難しい。
「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、うらみをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも耐えることがない。」

この文章も文法的に訳すと簡単ではない。
詩的な表現だ。
”愛は”というのは、
”「キリストと同等の愛に心があふれていれば”と解釈するのだろうか。
後半の部分は
迫害されたときにもキリストへの愛があればと読むのだろうか。

いちばん最後のことばは
イエスを受け入れキリストの愛に心がみちれば、それは永遠の価値があるということだろう。

上の文章には
日本人に受け入れやすい
”やさしさ”、”思いやり”の言葉がない。

新約聖書には
その概念を表す言葉がないのだろうか。

文化の違いか?しかし、西欧でも”やさしさ”、”思いやり”の価値観は高いはずだ。
このように日本の価値観から聖書を逆照射してみると面白いかもしれない。
研究課題だ。



9月7日

妻からの言葉:

2008年 9月 7日
主の大能
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
(マルコによる福音書 4章35~41)

東泰男牧師の消息?

http://www.int-christian-center.org/2006/01/post_8.html
国際クリスチャンセンターのホームページの更新が昨年で終わっている。

どうしたのだろうか?

東牧師のプロファイルをみるともう76歳ちかくになられるようだ。
心配だ。

じじ

よくみたら2007年の8月にアーカイブの更新があり
これは
月別アーカイブ
2007年08月
2006年09月
2006年07月
2006年05月
2006年02月
2006年01月
2005年12月
2005年11月
っているので
活動は継続されているようだ。
一安心した。
じじ



〔教会住所〕
〒170-0005
東京都豊島区南大塚1-60-20
協立第三ビル10階
TEL&FAX 03-5976-0823

〔東泰男牧師 略歴〕
1931年 山形県山形市に生まれる
1954年 玉川大学農学部卒業
1959年 アメリカ・イリノイ大学修士号取得
1962年 カナダ・アルバータ大学理学博士号取得
1962年 アメリカ・イリノイ大学講師
1965年 イラク共和国政府技術顧問
1968年 カナダ・サスカチュアン大学助教授
1971年 アメリカ・イリノイ大学客員教授
1972年 ジュエル食品会社品質管理部部長
1977年 (召命を受ける)
1979年 レーマ聖書学校卒業(オクラホマ州)
1979年 単立グレース教会副牧師(イリノイ州)
1980年 あづまキリスト教伝道協会設立
1980年 (日本にて伝道を始める)
1984年 国際クリスチャンセンターを設立(現在牧会中)

プライバシーと祈り

映画のなかで
カトリックでは教会のなかで小さな窓をとおして
神父に懺悔して罪を告白しているシーンをよくみかける。

プロテスタントの教会では祈り会というものがあって
解決したい問題をその会のなかで打ち明けて複数の人々が祈り合う。

このとき具体的な祈りを必要とされることから
プライバシーがおかされる問題がでてくる。

じじ

”人をみるな”はただしいか?

”人をみるな”とは
クリスチャンの過ちをみたときに
それは聖書主張の過ちではなく
未熟な人間の過ちだという意味あいでつかうことが多い。

これがブッシュ大統領の戦争好や過去の
魔女狩り、
宗教戦争などに及ぶときには
そのままは受け入れられない。

ということは
ちいさいことも
おおきいことも
原理は同じなので
”人をみるな”はただしくないのではないか?


kp

日本語の不自由さ

聖書は外国からきてるので
これとことなる文化の背景をもつ日本語は不都合な場合がおおい。

一例は神様の名前。
英語を直訳するとキリストの名前として
イエスとよぶか
イエスさまとよぶかまよってしまう。
ジーザスとよべば英語にちかいので抵抗感はへるが
イエスと呼ぶと不敬の感が付加されるのではないかと心苦しくなる。
かといって
イエス様と
よぶと女々しくなって自分が女子供になるかのように思えてしまう。
そんなわけで
なかなか日本の教会にはなじめなくなってしまう。

賛美の仕方

アセンブリー系の教会では
歌と演奏による賛美を重要視しさらにそのときに眼をつぶって両手をあげて
神(さま)を賛美するようにしさらに体を横にふる。
そのような習慣のないひとたちにはこれが
”異様”に映る。

kp

韓国のクリスチャン

韓国にはクリスチャンが多い。

一方で韓国人は感情的で怒りやすい。
そして日本人を糾弾するひとが多い。

ということはクリスチャンであっても怒りやすいひとたちが多いということにもなる。

kp