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東泰男牧師講義サタンの策略1 メモ

東泰男牧師講義サタンの策略1の個人的メモ

祈りに対して祈りをはるかに上回る攻撃がサタンからかかってくるという。

サタンは打ち負かされているはずなのにいったいどういうことか?

 

コリントII 2:10  サタンの策略を知らない訳ではありません。

テモテI  4:1  ペテロI 5:8 ヨハネI 3:8 4:5

イエス様は悪魔の存在は無くすのではなく、活動を壊しにきた。

マルコ16:1 16:1−17 蘇った後のイエス様だ悪霊を追い出せと言っている。

ペテロI 5:8 悪霊が動き回っている。

エペソ 4:27 黙示録 20:1 サタンは千年紀までの間活動をしている。

 

ホゼア書 4:1 私の民は知識がないので滅ぼされる

エペソ 6:10 悪魔に打ち勝つ立つには 神のすべての武具を。。。

 

サタンは実在している。

 

マタイ 3:4 イエスとサタンの会話>サタンがいないとしたらイエスは狂人となる

ペテロI 5:8 

テサロニケI  2:18 サタンがパウロのテサロニケへの移動を妨げた。

 

サタンとは誰なのか? なぜ人を攻撃しようとしているのか?

 ダニエルの21日の断食と祈り

 三大天使:ミカエル、ガブリエル、ルシファー(イザヤ24:12)

黙示録 12:7 エゼキエル 28:11 イザヤ 14:12 創世記 1:26

 

賛美が健康・癒しを与える。

 

サタンの特徴は。サタンは勢力を持っている。サタンはアダムの支配権を持っている。

東康男牧師の聖霊から力を全11回のまとめ・重要です

聖書講義11’ メモ

聖書講義は10で終わって、11は上級コースだという。

旧約聖書での例をあげて預言者の交替時にいかにして新預言者が聖霊を2倍にできたかという説明。

淫婦バビロン?

聖書にはバビロニアは悪の大元であるように書かれその線に沿って悪口の限りが尽くされている。

例えばここ

 

一部転載:

この淫婦を「バビロン」という名称で呼ぶのは、淫婦が追求する信仰が、バビロンの宗教であるからである。バビロンの宗教は、バベルの塔を建設した「ニムロデ」と、彼の母親であり妻である「セミラミス」から始まったのだ。創世記10章には、ニムロデの話が記載されているが、ニムロデはクシュが生んだ息子であり、ノアのひ孫である。聖書は、ニムロデを「権力者」であり、 「主の前で力ある猟師」と紹介している。 「主の前で」という言葉は、正確に言えば、「主に敵対( against )する」という意味である。力ある猟師の文字的な意味は、「獣を乱暴につかむハンター」という意味である。しかし、古代の戦争の英雄を「ハンターの弟子」と称えた慣習に照らしてみると、 「力あるハンター」という表現は、「残酷な戦争狂」という意味でなければならない。無慈悲な戦争で、町や都市を征服し、最初の帝国であるバビロン、あるいはバベルの塔を建設したのが、まさにニムロデである。聖書では、このニムロデは、まさに「反キリスト」を予示する最初の人物として知られている。

 

そして、ニムロデには、「セミラミス」という妻がいたが、本来はニムロデの母であった。その母の夫クシュが死ぬと、息子であるニムロデと結婚して皇后の力を得たと伝えられている。後日、バベルの塔を建設した出来事により、ニムロデ自身も神の裁きを受けて死ぬことになる。このように、ニムロデが死んで数年が過ぎた後、みだらなセミラミスが私生児を産んだが、狡猾なセミラミスは人々に、この子はニムロデの生まれ変わりだと紹介したという。その子の名前がタンムズです。その後、バベルの塔を建設したニムロデは、太陽の神バアルとなり、セミラミスは月の女神イシュタル ( Ishtar )に、息子であるタンムズはニムロデの生まれ変わりである太陽の息子として仕えられるようになるが、彼らがまさにバビロンの信仰の中心である。

 

これらの主張の根拠資料はどこにあるのか?

その客観的な資料がなかなか見つからない。

 

聖霊講義11 メモ

1994年時の講演記録。

ヤコブ5:17 エリアの例。400人のバールの預言者と対決。エリアは普通のひと

列王記1 19:1 エリアの弟子エリシャの成長

列王記2 2:1 川の水を分けている。4つの地点を動いている。奇妙な動き。合計60キロ。約二日間。

 

その理由は私には見つけられないだろう。

 

東流の解釈はエリシャの霊的な教育が目的。

出発点ギルガルはどんな町だったか。ヨシュア記 4:1 神様の賛美の12個の石。

荒野で40年間同じ衣服を着ていた。感謝の気持ちがなくなってくる。古いトウモロコシを食べ始める。聖霊が動く場所がなくなった、それがギルガル。

ギルガルでは霊的成長ができない。

ではベテルは? 創世記12:1、 28:10、35:1、

ししき 20:18、21:1 新たな決心、精霊からの油注ぎ。

ベテルでは不十分。ヨシュア記 ?:? エリコの聖絶。 サタンの妨害。

エリコの城壁を7日間回る。疑いを除く行動。

次のヨルダンとは? 申命記 3:23 。。。

ヨシュア 3:1 マタイ 3:1 ヨルダン川のヨハネ イエス様の洗礼

神の約束の出発点 列王記 2:7 エリシャのエリアの霊が移る

 

エリシャはエリアの2倍の聖霊の力を願った。

 

 

聖絶とエホバ以外の他の神々

旧約聖書ではエホバ神以外の神々には全く容赦ないように見える。

他の神々は皆聖絶の対象として殲滅すべきだとされる。

逆にエホバの神に従順なものは恵の対象となる。

この原則をさらに厳密に現在に当てはめると大変なことになる。

同じエホバの神でもイスラム教は否定される。イエスを神と認めないからだ。

ユダヤ教とプロテスタントの立場は異なる。ユダヤ教はイエスをメシアと認めないからだ。

しかし旧約聖書から見るとエホバに忠実な限りユダヤ教はエホバの神から認められる。

さて旧約のエホバの神は旧約から見たら正当性はあるのだろうか?

旧約聖書はマホメッドの到来を予言しているのだろうか?

コーランの主張がわからないので早急には判断できない。

プロテスタント以外のキリスト教はどうだろうか?

多数がマリアを偶像にしているのでエホバの神からは認められないだろう。

これら以外の神々は旧約では皆否定されているようだ。

だから信仰を強く持てば現代でもエホバに従わない神々とその信者は皆

殲滅されるべきだということになる。

大虐殺が許容されることになる。

どうしたら良いのだろうか?

論理的にこの難問を回避できる方法はあるのだろうか?

 

それとも現代のヒューマニズムを優先して

妥協した信仰を持つべきなのだろうか?

 

聖霊講義10 メモ 結論に大困惑

信仰の弱いもの・罪深きものの告白

日本や中国系の教会では

ひんぱんに 祈りのときに ”自分は信仰の弱いものですが。。。。。私は罪人ですが。。。”

というまくらことばをつける。

アメリカで神の恵みを強調する教会とは対照的だ。

わたしは自分の信仰の弱いのをたなにあげて

おおくのひとが  ”自分は信仰の弱いものですが。。。。”とつぶやくのをきいて

違和感を感じるのを超えて、はらをたてていた。

 

聖書には ”罪は許された”はずだし、”信仰をつよくもて”と命令しているからだ。

つまり大半のChristianは聖書の教えに反した行動をしているからだ。

しかもそれは牧師の責任でもある。

 

ところがどんなに聖書の教え通りにしても聖書がいっているようにならない現実が

多いと、真剣になればなるほど、実感してくる。

 

その現実と落差があるために、信じる聖書を正当化するために、

自分を落とさざると得ないことになってしまうのだ。

 

信仰とはまだみぬ事柄を信じること

正確には

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル11:1〜3)

 

とあるものだから祈りが答えられないときの答えが用意されていて、ただ信じるほかはないのに

現実の裏付けがないから自分のせいにせざるを得ないのだ。

 

遠藤周作はプロテスタントからは悪名高いカトリックだが

”沈黙”が

同じことをいっている。

 

私達が苦しいときにイエス様はどこにおられるのかとよく問う。

有名な歌では”私はあなたと一緒に苦しみに耐えていた”

と謳って、慰めてくれることがある。でも本当に欲しいのはイエスさまご自身のナグさめなのだ。

それがないために

自分の信仰が弱く、罪深いといわざるを得ないのだ。

 

我主イエスさま

どうぞあなたを求めるものをあなたがはっきりとお姿をあらわし慰めていただけますよう。

主イエス・キリストの神名によって祈ります。

アーメン。

 

 

私の民は知識がないために滅ぼされる

私の民は知識がないために滅ぼされる

とはホセヤ書4:6

でこの言葉は聖書を研究することを勧めるのに使われた記憶がある。

(故東康男牧師の聖書研究で自説の正当化によく使われた)

勉強・研究をするということは勉強・研究しない人との差が明らかになってくるということで

自然とクリスチャンの間で温度差が出てくる。

そして論争や批判が必然的に出てくる。

クリスチャンはこの相互批判を極端に嫌うので聖書をどう読むかの議論は

仲間内では滅多に起きない。

実際、神様もこの仲間内での批判を嫌っているのだ。

また多くは論争に慣れていないし、感情的になりやすい。

同じホセヤ書4章でも

  旧約聖書:ホセア書:4章: 4節   しかし、だれも争ってはならない、責めてはならない。祭司よ。わたしの争うのは、あなたと争うのだ。”

とあり6節とセットにして読むべきなのだろう。

 

いやはや、聖書の勉強とそのdiscussionほど難しいものはない。

論争をすると感情的になり、憎しみを招いてしまいやすいのだ。

 

聖霊講義9 メモ

 前回:聖霊を悲しませては聖霊は力を出せない。 

 今回:聖霊が力を出せないので悲しむ。

 聖書に書かれていないことがある。

歴代誌II 5章 使徒4:1

 祈りの訳にも色々あり強い要求の祈りの場合がある。

牢獄のペテロを御使がたすけた。

使徒16:16

 使徒が心を一つにしなければサタンに立ち向かえない。

歴代誌 5:12、使徒 4:26

 カリスマ派などうるさい賛美、その逆もある。

 

イエス様が直接聖霊について教えているところ。

ヨハネ14:16 14:26 15:26 16:7、16:13、16:14

イェス様が何をしてくれたかに思いをはせる。感謝をする。

イエス様の教えの通りに行動する。皆が同じ思いを持つ。

 

まとめ、団体での行動の指針。