信仰の弱いもの・罪深きものの告白
日本や中国系の教会では
ひんぱんに 祈りのときに ”自分は信仰の弱いものですが。。。。。私は罪人ですが。。。”
というまくらことばをつける。
アメリカで神の恵みを強調する教会とは対照的だ。
わたしは自分の信仰の弱いのをたなにあげて
おおくのひとが ”自分は信仰の弱いものですが。。。。”とつぶやくのをきいて
違和感を感じるのを超えて、はらをたてていた。
聖書には ”罪は許された”はずだし、”信仰をつよくもて”と命令しているからだ。
つまり大半のChristianは聖書の教えに反した行動をしているからだ。
しかもそれは牧師の責任でもある。
ところがどんなに聖書の教え通りにしても聖書がいっているようにならない現実が
多いと、真剣になればなるほど、実感してくる。
その現実と落差があるために、信じる聖書を正当化するために、
自分を落とさざると得ないことになってしまうのだ。
信仰とはまだみぬ事柄を信じること
正確には
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル11:1〜3)
とあるものだから祈りが答えられないときの答えが用意されていて、ただ信じるほかはないのに
現実の裏付けがないから自分のせいにせざるを得ないのだ。
遠藤周作はプロテスタントからは悪名高いカトリックだが
”沈黙”が
同じことをいっている。
私達が苦しいときにイエス様はどこにおられるのかとよく問う。
有名な歌では”私はあなたと一緒に苦しみに耐えていた”
と謳って、慰めてくれることがある。でも本当に欲しいのはイエスさまご自身のナグさめなのだ。
それがないために
自分の信仰が弱く、罪深いといわざるを得ないのだ。
我主イエスさま
どうぞあなたを求めるものをあなたがはっきりとお姿をあらわし慰めていただけますよう。
主イエス・キリストの神名によって祈ります。
アーメン。