何も考えていないとき、目の前のことをしているときに、ふと入り込んできた言葉。



私の森の中にしんしんと降り積もった言葉。


通り過ぎていくだけでも、あぁ好きだなぁとか。

すてきだなぁとか。



そんな印象を残してゆく。





好きなものは好き。


一生変わらないのかもね。








いまは頭の中が、骨と皮しかないみたいに何も入っていないみたいだ。









なんだろう




物事を知っていくうちに、やっぱり私は私にしかなり得ないと知る。








あぁ、やっぱりか。



その納得を重ねていくばかり。






疑いようのないもの。







吉本ばななさんの短編集が最近文庫になって、その文庫版あとがきにこれから10年はあまり小説を書かないということが書かれていた。



仕方がないのかなと思ったし、引退するわけではないのだからと前向きにも捉えたけれど、それを読んでから二日経ち、だんだんとその重みがボディブローのように、じわじわと響いてきている。




私が初めてよしもとさんの小説を読んだのは中学生のとき。


私は今よりも無理をしていて、自分自身に嘘をついて、周りに合わせて懸命に生きようとしていた。



それが自分に嘘をついているなんて気付かずに、自分の本当に大切にしているものはなんなのかわからずに。



そのときの世の中だったり、周りにいる人の価値観だったりに依存していた。





でもずっとずっと疲れていた。




そんなとき、家にあったキッチンを読んだ。




それが私の分岐点と言える。






キッチンを読んでから、私が持っている小さな小さな、他の人からしたら何の価値もないような宝物は、私の中で大切にしていていいものなんだって思えた。



息をするのが楽になった。






それから吉本さんの本は全部読んだ。



何回も何回も読んでいる本が多い。



かばんの底に吉本さんの本を入れてお守りにしている。



それくらい大好き。


大好きというか、もうその定義すら違っていて、もしかしたら、生きる指標、そんなようなものかもしれない。




私が中学生のときにキッチンを読まなかったら、本当にくるしくてくるしくて、自殺していたかもしれない。



そのくらい、大切な出会いだった。







だから10年も小説を書かないというのは、やはりこたえる。



でも10年経ってもきっと、吉本さんの本を何度も何度も読んでいるだろうとも想像できる。






あぁ、最近思うことは私自身の弱い部分を徹底的に見つめたい。



改善しようとかじゃなくて、改善すべきところがあればするけど、そのままでいいところもあるだろうから。




それが私だっていうのを洗い出したいなぁ。
たぶんかれこれ15年以上は頭痛に悩まされている。


今まではただただ薬を飲み、それが効くのを待っていて、効かなければあきらめていた。



最近は頭痛に対する対処法をいろいろ実践している。


私に合った方法を模索して、試してみる。


毎回同じもので効くわけではないけれど、なんだか一つ一つ前向きな気がする。





あきらめることよりは、自分がもっと楽になれるように、模索している。




少しは赦せているのかもしれない。



他のことでもそういうことが多い。




私なんか、という概念はもういらない。








麻痺して、消費して、見えなくなって、重くなる。





私を包むベールが、にごってしまっているのなら、にごらないように戻さなければ。



ベールはあった方がいい。



繭みたいな、カーテンみたいな。





そのベール、フィルターは最低なもの、醜悪なものに気づかせない。





それこそが私がもらったものだ。

家族からや、友達から、恋人から、世界のすべてから。

美しいものを見せてくれる。


私だけのもの。




ベールが剥がれ落ちそうな時もあった。

でもなくならなくてよかった。


もしくは別のベールをもらったのかもしれないな。


ベールは、優しくされたこと、優しくしたこと、理解してもらえたこと、正しく共感できたこと、様々な美しい景色、その全てでできている。


それを通して見える世界が私の世界。



あえて感謝しなくてもそれは当たり前のことなんだ。

誰にでもベールは存在している。

それを通して世界を見ている。


だからっておろそかにしていいものではない。


大切なのはわかっている。