
3/23日に地元の公民館に舞台を見に行きました。
それは地元に伝わる「彦五郎物語」という、暴れ川「富田川」の氾濫防止の堤をめぐる悲しい物語です。
その様子は昨日のNHKの朝のニュースでもとりあげられていました。
画像はニュースの映像です。
▼アップで見ると私もテレビに映っていましたよ♪(散髪しとけば良かった^^;)

と、おふざけはコレくらいにしといて・・・^^;
私の住む和歌山県上富田町朝来と言う地域は今までに何度も富田川の氾濫による水害に見舞われ、
人も家畜も畑も・・・ひどい時には村そのものが何度も消え去っていると聞きます。
事実、畑(水田)を掘って行くと石が続々出てきます。
流された田んぼの上にまた田んぼを作る・・・
新井戸を掘る時に解るのですが、その繰り返しで石コロ層と作土層は幾重にもなっています。
他の地域でも同じ事が起っていると思いますが、
この地域に伝わる彦五郎物語と言う水害にまつわるお話があります。
彦五郎物語とは・・・
その昔は堤(土手・堤防)が大雨が出る度に壊され、ひどい時には年に3回も決壊し、
そのたびに人々が犠牲になっていたそうです。
そんな時代のある日、村のお偉方の夢枕に氏神様が立ち、
「人柱を立てれば堤が壊れる事は無い」とのお告げがあったと村人を集めてそう言ったそうな。
悲しい事に当時は人柱に知恵おくれの人、犯罪者、未亡人に白羽の矢が立てられていた様です。
しかし、誰もが人柱(堤防に生き埋め)になんかなりたく無いのは当然の事。
と言う事で、着物に横継ぎの補修がある人間を人柱にしようと言う事になったそうな。
その言い出しっぺは物語の主人公の彦五郎さん。
しかし、誰も横継ぎの補修はない・・・。
誰かがやらねばまた災害は繰り返される。
なんと、言い出しっぺの彦五郎さんが自分で着物を横継ぎし、自らの命を犠牲にしたという言い伝えです。
一説によれば彦五郎さんとは、彦蔵さんと五郎さんの二人という説もありますが、
本当にひどい時代だと思います。
★本当にお厄人様の夢枕に氏神様が立ったのだろうか?
★本当に彦五郎さんは自ら志願したのだろうか?
★村を守る立場のお偉方はなぜ自分が志願しないのか?
いつの時代も身勝手な一握りのお厄人様に人々は泣かされるんですね。
結局、彦五郎さんは人柱になった(させられた?)そうです。
物語では不思議な事にそれからは堤が壊れる事も無く、村には平和が訪れたという事になっています。
しかし、彦五郎さんの時代は江戸時代初期の慶安四年(1651年)と言われています。
確かに江戸時代には水害は無かったのかもしれない・・・
しかし、残念な事に明治にも大水害が起っています。
熊野古道に続く口熊野のこの地は大きな宿場町があったとされていますが、
その宿場町も町ごと跡形も無く消えたと言う事です。
----以下引用----
歴史資料
○明治22年8月19日、真夜中の2時
この時、富田川の堤防が一斉に切れ、大音響とともに、天地を揺り動かし、決壊場所から一度に流れ込む濁流は、物すごい響音と共に低地に向かって渦をまいて流れこんだ。そのため水はいよいよ深く、またたくまに2丈8尺(8.5m)を増した。ここで決壊前に残っていた人家はほとんど流失、人間や多くの家畜・木材や砂や岩石と共に上流から流れてきて海に向かって音をたてて注いでいる。
○明治22年8月大水害
『富田川災害記』によると、富田川筋の死亡者565人は、圧死23人、溺死542人、負傷者52人、家屋流失749戸、半流47戸、全壊459戸、半壊148戸、牛馬の死亡が136頭である。堤防は各所で壊れ、手入れの行き届いた水田も河原のごとくなっていた。
とくに土壌の柔軟な水源地帯での山の崩壊が多く、最上流部の山崩れが川をせき止めたので、下流域ではいったん水が引いたとみられた。ところが、その堰が切れて一気に大水が下流へ流れて堤防をあふれ出した。そのため、比較的堅固といわれていた彦五郎堤をはじめ、主要な部分で堤防はことごとく決壊して、家々や田畑、道路を一挙に押し流してしまった。
さらに朝来村岩崎と北富田村保呂の間が井堰のように泥水をせき止めたことが、朝来、生馬両村の被害をさらに大きくしてしまった。犠牲者も朝来、生馬両村とその上流部にあたる岩田村を加えた三か村で326人(富田川筋の57.7%)という結果になった。とりわけ生馬村は、村民の約10%にあたる人々が犠牲となってしまった。
この水害の復旧には、長い年月と多大の費用、労力を要して、村および村民の財力を苦しめた。被害の甚大であった奈良県十津川村では、直後に北海道へ集団移住をして新十津川村をつくったことは広く知られているが、当地からも屯田兵や一般住民として北海道へ渡っていった人々もいた。
○明治26年8月17日の夜半
紀伊半島に超大型の台風が上陸、富田地域を直撃。天は再び大洪水を下し、富田川の新堤防も、農民が苦心の結果復旧した井堰もほとんど決壊、富田平野は再び礫磧と化し、村民の落胆失望は筆舌に表すことができない惨状となった。
----引用終了----
その後、昭和後期の富田川堤の補強工事により、富田川の増水による堤の決壊はおきていません。
▼彦五郎さんを祀る石碑は新しい堤の上に建て直されています。

彦五郎さんは無駄死にであったかどうかは別にして決して忘れてはならない悲しい物語なのです。
福島の原発事故でも人知れず人柱的立場を背負わされた方がいるではないでしょうか?
そう思うと100%安全とは決して言えない原発再稼動にはどうしても賛同出来ないのです。