★フィリピン伝説のパンチョ・ビラはアジア人初の世界王者!/No.1464 | ◆ ボクシングを愛する猫パンチ男のブログ ◆

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アジア人初の世界王者パンチョ・ビラ!



アジアのボクシング界でフィリピンの初代世界王者を語らずして始まらない。日本人初の世界王者白井 義男(1952年)より29年も遡ること1923年にアジア人初の世界王者として偉業を成し遂げた選手が存在した。日本では随分あとになって新聞や雑誌などで紹介され有名となったパンチョ・ビラです。
ビラはメキシコの革命家で度々映画化(西部劇風)されモデルとなったパンチョ・ビリャ(Pancho Villa)と名前のスペルが同じでよく混同されがちです。では何故メキシコ以外の遠く離れたフィリピンで同姓同名のヒーローが誕生したのかは理由がありました。

(本家メキシコの革命家パンチョ・ビリャ)


ビラの本名はフランシスコ・ビラルエル・ギュレドとスペイン語圏風の長い名前です。フィリピンにスパニッシュ風の名前が存在するのはスペインに300年以上もの長い間統治された時代があった名残からでしょう。ビラがボクシングを習い始めた時代メキシコの独裁政権を打ち倒した革命戦士としてすでにパンチョ・ビリャの名はフィリピンにも伝わり立志伝中の人物として有名だった。ビラは同じ下層階級出身で境遇も似ていたことからその革命家の勇敢さに心打たれ尊敬していたようです。そして、憧れもあってその名を借りリング名としたのでした。

ビラは17歳だった1919年1月1日、地元マニラ市で104ポンド契約(47.174Kg)の4回戦をアルベルト・カストロ(比国)と戦い3回KO勝ちデビューを飾った。
55戦目(49勝1敗3分2無判定)までを地元フィリピンで戦いその間、階級を上げOBF(OPBF前身)東洋バンタム級王座も獲得している。尚、フィリピンの専門ネットによると地元でのリングネームは本名を短くした"フランシスコ・ギュレド"で戦っていたようです。そして、当時の米プロモーターから勧誘を受け56戦目からは大きな夢を求めて本場の米国へと渡ることになった。
63戦目に米国フライ級王座決定戦をニューヨークシティのエベッツ・フィールドでジョニー・バフ(米国)と戦い11回TKO勝ちで王座を獲得すると一躍注目され知名度を上げた。
その後米国フライ級王座は2度目防衛戦でフランキー・ジェナロ(米国)に15回1ー2の僅差判定負けで王座から陥落してしまう。

しかし、再起して新聞社主催の記者採点試合を含め5戦4勝1敗の戦績でそれまでの実績が評価され78戦目で世界戦に抜擢される。
1923年6月18日、米ニューヨークシティのポロ・グラウンズで当時NBA&ニューヨーク州公認世界フライ級王者で人気スターだったジミー・ワイルド(英国)に世界初挑戦となった。
試合は序盤から王者ワイルドの左右を浴びてビラは大苦戦する。
しかし、徐々に巻き返して挽回、ついには7回ビラが怒涛の左右フック連打を浴びせるとワイルドは気を失うように前のめりにバタンと失神ダウン。王者はうつ伏せのまま立ち上がれずビラの見事な逆転番狂わせKO勝ち。アジア人として初めて世界王座を獲得した瞬間だった。ワイルドは顔面から倒れる危険な倒れ方で陣営によってコーナーへと運ばれた。当時、ワイルドはフライ級最強王者(5度防衛中)との呼び声高くそれを破ったことでアジアにも実力ある選手が存在することを知らしめた世界タイトル戦であった。




小柄なパンチョ・ビラは前半戦を王者ジミー・ワイルドに攻め込まれたが、徐々に巻き返し挽回すると7回左右連打の猛攻でワイルドは前のめり失神ダウン。劇的逆転KO勝ちでアジア人初の世界王座獲得となった。そして、100年以上前の衝撃シーンは遺されていました。貴重な映像をどうぞ!(2分11秒)



その後、2度防衛してスターダムへと登り詰めたパンチョ・ビラは1925年5月2日、地元凱旋試合をマニラのウォーラス・フィールドで当時有望株とされたクレバー・センシオ(比国)と戦い15回3ー0(採点不明)判定勝ちを収めて3度目防衛に成功した。
しかし、活動拠点の米国へ戻ると何故か王座を返上してしまう。
そんな中、1925年7月4日、試合地カリフォルニア州エメリービルの歯科病院で親知らずを抜歯したまま若さの勢いでノンタイトル10回戦をジミー・マクラーニン(カナダ)と戦いまさかの10回(採点不明)判定負け。(結果的にこれがラストファイト)

そして、10日後には思いがけない悲劇が起きてしまう。


遠征先だったカリフォルニア州サンフランシスコで体調を崩して病院で診察すると抜歯したままリングに上がったことが原因で敗血症(血液中に細菌が拡散して臓器が機能しなくなる危険な病気)と診断される。そして、前試合から10日後の1925年7月14日、入院していた病院で突然容体が急変して帰らぬ人となった。わずか23歳という若さでの客死であった。



その亡骸(なきがら)は米国から軍艦でフィリピンのマニラ港まで運ばれ遺体が安置された近くの教会前には10万人以上もの民衆が詰めかけ悲しみに暮れたと当時の新聞は報じている。(上記写真)
今世紀世界的スターとなったマニー・パッキャオノニト・ドネアに勝るとも劣らない国民的ヒーローだったことが窺えます。
フィリピン国民に勇気と希望を与え一瞬にして駆け抜けたパンチョ・ビラでした。そして、諦めない拳闘魂の精神は現在のフィリピノボクサーに受け継がれている。

〈パンチョ・ビラ MEMO〉
本名:フランシスコ・ビラルエル・ギュレド
生年月日:1901年8月1日
出身地:フィリピン・イロイロ州イロイロ市。
対戦階級:フライ級・バンタム級(当時は8階級とされる)
身長/リーチ:155cm/160cm
デビュー:1919年1月1日
ラストファイト:1925年7月4日
死没地:1925年7月14日・米国カリフォルニア州サンフランシスコの病院内(享年23歳)
生涯戦績:103戦89勝(22KO)8敗4分2NC(無効試合)

【獲得王座】
OBF(OPBF前身)東洋バンタム級王座(防衛せず返上)
米国フライ級王座(1度防衛)
NBA(WBA前身)世界フライ級王座(3度防衛後に返上)

★ 国際ボクシング名誉の殿堂博物館入り(1993年)
★ 世界ボクシング殿堂入り(1994年)