★伝説のヘビー級王者ロッキー・マルシアーノよ永遠なれ!/其の10・最終回(復刻再編集版) | ◆ ボクシングを愛する猫パンチ男のブログ ◆

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事故に散ったロッキー・マルシアーノ!



    ロッキー・マルシアーノは引退して13年の歳月が流れていた。
相変わらずボクシング中継の解説や本の出版・講演会などで活動しながら忙しい毎日を送っていた。そして、暇をみては各州で開催されるプロ・アマを問わずエキシビションマッチ(練習試合)などに招かれレフェリー役を買って出たり、技術指導をしたりしてボクシングの普及にも一役買っていた。
1969年8月31日、この日は特別な日だった。
米国アイオワ州ニュートン市のボクシング界貢献者表彰式や現役時代の後援者によるパーティーに招かれるなどボクシング談義に沸いたのだった。宴も済んで当初はフロリダ州の自宅に帰る予定だったが、急遽現役時代テレビコマーシャルに出演していたアイオワ州デモイン市にあるスポンサーでもあった石油会社社長の計らいでマルシアーノの誕生パーティーを開いてくれるというお呼びがかかり予定を変更する。デモイン市までの移動は交通アクセスが悪く小型飛行機を利用することになった。

マルシアーノは行事を済ませアイオワ州ジャスパー郡の田舎町外れにある単発機専用飛行場に車で到着するとドシャ降りの雨が降っていて悪天候であった。視界は悪かったが状況を見てセスナ機を飛ばすことになった。そしてマルシアーノは友人とパイロットとともに搭乗すると悪天候だったが暫くするとセスナ機は無事飛びたった。
離陸して飛行場の管制室からセスナ機に飛行状況確認の無線交信をやり取りしていた。しかし、その交信のやり取りは数分後に急転する。セスナ機から「視界不良で風が強く操縦が難しい!今どこを飛んでいるのか分からない?」とパイロットの緊迫した声の連絡後、突然交信が途絶えてしまう。何度呼びかけても応答はなかった。
もう、数十分も経っていた。悪天候で夕方だけに管制員には不安がよぎった。時間だけが過ぎていく。

もう消息を絶ったのは明らかだった。管制員は直ちにアイオワ州の救助隊に出動要請するしか術はなかった。そして管制員の不安は的中した。夜になって農場主から墜落したセスナ機の残骸があると警察へ連絡が入ったのだった。墜落現場はアイオワ州ジャスパー郡ニュートン村にある「ヘンリー・アイランダー農場」のトウモロコシ畑の立ち木に激突して大破していた。そのセスナ機は操縦席から客席部分を潰された格好であまりの惨状に救助隊員も目を背けた。
生存は到底のぞめるはずもなく搭乗していたマルシアーノ、友人、パイロットの3人は救助隊員によって死亡が確認されたのだった。マルシアーノは翌日に46歳の誕生日を迎えるはずであった。



フロリダ州の自宅でもパーティーを開こうと待ち受けていた妻子や友人達にエージェントからの連絡でマルシアーノが事故死したとの訃報が伝えられると動揺と哀しみに暮れるしかなかった。
(Rocky Marciano Biography&自伝映画より)

翌日には『元ヘビー級世界王者ロッキー・マルシアーノ~セスナ機墜落事故で死亡!』と訃報のニュースは全米はもとより世界中に発信され駆け巡ったのだった。その後葬儀の模様もテレビニュースで大々的に報じられた。どうして悪天候にもかかわらずセスナ機は飛んだのか、誰の要望があっての運航だったのかなどは未だに定かではなく何処にも記されてはいない。
当時、大活躍していた若き日のモハメド・アリはインタビューに「白人ボクサーは皆が敵に見えたが、彼だけは別な人だった。ボクサーとしての憧れだけではなく人格的にも尊敬していた人物だった」とコメントしている。



そしてその夫の凄惨なセスナ機墜落事故から5年後、妻のバーバラも病に倒れ後を追うように46歳の若さで病死した。
父親のピエリノ・マルケジャーノは1972年3月に亡くなったが、母親のパスカリーナは長命であった。
母パスカリーナは1986年1月に亡くなるまで毎朝欠かさずマルシアーノの遺影の前で祈りを捧げたと言われている。
兄弟姉妹(弟3人、妹2人)はそれぞれアメリカの各州で暮らしていて兄マルシアーノが残した財産、遺品、出版物などを管理しながら世界中のファンの為にサイト配信サービスに努めている。
ロッキー・マルシアーノは亡くなって54年経っても隔年ごと各スポーツ誌で発表される『レジェンドヘビー級ボクサー100選』では常にトップ10に入っていてその人気は今なお衰えてはいない。
人物像もボクシング専門誌やあらゆる書物でも紹介されている。
その人気は戦歴ばかりではなく人柄によるところも大きい。
特に、現役時代も引退後も恵まれない児童養護施設にいる子供達を支援したり、老人ホーム建設などのチャリティーを募ったりした。
それはマルシアーノ自身が幼少の頃、家庭が貧しく恵まれなかったところからきている。そして「もう、戦う相手はいなくなった!」の名セリフを残し数々の名勝負を歴史に刻んで天国に召されていった。ロッキー・マルシアーノという誇り高き名王者の名前はこれからも永遠に語り継がれていくことでしょう。
フロリダ州フォートローダーデールにあるフォレスト・ローン・メモリアル・ガーデンズ墓地で妻と共に仲良く眠っている。

【生涯戦績】
プロ戦績・49戦49勝(43KO)無敗
全階級を通じて引き分けや無判定、無効試合なしの連勝記録は2017年8月26日、フロイド・メイウェザーJ.(米国)が50連勝を達成するまで61年間記録は破られなかった。
アマチュア戦績・12戦8勝4敗(五輪代表選考試合含む)
1952年9月23日、NBA(後のWBA)ヘビー級王座獲得。
1956年4月27日に引退するまで6度防衛した。

〈ロッキー・マルシアーノに捧げられた詩〉

ロッキー ロッキー・マルシアーノよ
おまえはいつだって勝ち続けた
ロッキー ロッキー・マルシアーノよ
闘うごとにおまえはどんどん強くなっていく

リングからリングへと渡り歩く
そして 試合を続けた
ロッキーは連戦連勝 負けを知らない
なぜなら彼は自分自身にいたわることをしないから

チャンスを掴み とうとうヘビー級チャンプへとのし上がった
彼は石のように揺るぎないファイター
今なおその名は生き残り語り継がれる
おお ロッキー・マルシアーノよ 永遠なれ

(原詩・Bernd Meinunger)


〈レコード化されたマルシアーノ〉
1983年ドイツの壁崩壊前の東西ドイツ時代。
上記の詩人であり経済学者でもあった西ドイツ人のベルント・マイヌンガー(Bernd Meinunger)が大ファンであったロッキー・マルシアーノの歌を作詞、作曲をラルフ・シーゲルJr.(Ralph Siegel jr.)が担当してレコード化されている。
当時、ディスコ調の歌で世界でも人気のあったポップスグループ(6人組ユニット=西ドイツ)のジンギスカン(Dschinghis Khan)によって歌われた。A面の「ヒマラヤ=Himalaja」というタイトルのB面に「ロッキー・マルシアーノ=Rocky Marciano」という名前そのもののタイトルでカップリングされている。
大ヒットにはならなかったものの、数年後に廃盤となったこの貴重なレコードをロッキーファンが血まなこになって探し求めていたという。未だに人気の衰えない偉大な選手だったことが窺えます。

〈マルシアーノ映画化〉
1979年製作のテレビ映画「伝説のボクサー/ロッキー・マルシアーノ」が全米で放送され元アマチュアボクサーから俳優に転身してテレビドラマなどで人気を博したトニー・ロー・ビアンコがマルシアーノ役で主演して大好評を得たが、親族には余りにもストーリーが違い過ぎると不評だったという。
1999年製作のテレビ映画「ロッキー・マルシアーノ/伝説のチャンプ」も全米で放送され高視聴率をマークしてビデオも製作され、日本でもNHKのBSで放送された。マルシアーノ役にジョン・ファヴロー、妻役にペネロープ・アン・ミラーの両人気スターが演じた。製作者側は自信を持って忠実に描いたと発表したが、これも親族は脚色が多くあまり喜ばなかったという。
2008年、親族の許可を得て初めて公認映画として製作されると発表されたが、タイトルや出演者の詳細は不明。
2015年、親族公認第2弾でタイトル『アンディフィーテッド・ザ・ロッキー・マルシアノ・ストーリー』と題してマルシアーノ役を人気俳優のジェレミー・レナー主演で製作すると発表されたが映画の評判評価は不明。個人的には1999年作のジョン・ファヴロー主演のものが一番脚本もしっかりしていて良い印象だった。


幸せな一家団欒を過ごした頃。
(妻バーバラと娘マリアンと共に)

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(祈り続けた母パスカリーナ)
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(博物館に展示されたガウン)
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(故郷ブロックトンにある銅像)
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伝説の世界ヘビー級王者ロッキー・マルシアーノを10回に渡って紹介したお話は最後となりました。

~~~〜〜 其の10(最終回)

★ 駄文を最後まで読んで頂きありがとうございました!

【Rocky Marciano Official Website・参照】
【The Story of Rocky Marciano・参照】
【Rocky Marciano Wikipedia・参照】
【映画/ロッキー・マルシアーノ~伝説のチャンプ・参照】