★ロッキー・マルシアーノ師匠チャーリー・ゴールドマン思い出語る!/其の9(復刻再編集版) | ◆ ボクシングを愛する猫パンチ男のブログ ◆

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マルシアーノ師匠ゴールドマン思い出語る!

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(Charley Goldman)

ヘビー級史に残る名王者となったロッキー・マルシアーノを育てあげた名伯楽チャーリー・ゴールドマンは雑誌インタビューで指導した日々を語っている。

先ずはチャーリー・ゴールドマンの経歴から紹介しましょう。
若い頃は選手で現役時代はニューヨークを拠点に活動していた。

〈チャーリー・ゴールドマンMEMO〉
本名:イスラエル・ゴールドマン
出身地:ポーランド・ワルシャワ(ユダヤ系移民の米国人)
生年月日:1887年12月22日 生れ。
死没日:1968年11月11日(享年80歳)
階級:バンタム級
身長:155cm(バンタム級でもかなり小柄だった)
スタンス:不明
トレーナー実績:NYSAC(ニューヨーク州公認)王座、NBA(後のWBA)王座など2団体5人の人気王者を誕生させた。
【選手時代戦績】
★公認試合44戦31勝(21KO)6敗7分
★非公認試合(記者採点)89戦36勝26敗27分

非公認試合の記者採点とは当時、新聞社のボクシング担当記者が採点した公認試合とは別に開催されていた試合のことをいう。
エキシビションマッチよりやや試合色濃いものだったとされる。
ただし、非公認試合とはいえ順位戦や挑戦者決定戦など真剣勝負もあったと記されている。(Wikipedia&BoxRec)

(現役時代のチャーリー・ゴールドマン)


ゴールドマンの現役時代は何しろ100年以上も前の話で世界中(英国は除く)がまだ規定ルールも確立されておらず州単位の独自ルールで開催されワールドワイドではない時代だった。
当時のゴールドマンは小柄ながら技巧と強打で鳴らした選手と紹介されている。確かに公認試合ではかなりいい戦績を残しているのが分かる。一方非公認試合では技巧を試すあまり負け数が多かった。
しかし、チャンスもあった。1912年11月20日、非公認試合ながら次期世界挑戦権が与えられるという試合を元ニューヨーク州公認バンタム級世界王者ジョニー・コウロン(米国)と対戦したが10回0ー3判定負けに終わり挑戦権獲得はならなかった。
その後は9連勝するなど躍進した時期もあったが1918年4月8日、公認試合となったバンタム級15回戦をボビー・ウォー(米国)と戦い7回までポイントリードしていたものの8回危険行為による反則負けとなった。この時点で4連敗を喫したことでこれを最後にグローブを置いている。引退後は通算133戦の経験を基に如何にジャッジアピールさせる攻撃が必要なのかを後輩達に教えているうちトレーナーへと転身した。

経験を積んだ後、激闘王で名を馳せ「拳聖」と称えられ伝説的世界ヘビー級王者となったジャック・デンプシーが所属していたニューヨークシティの名門STILLMAN’S GYMに招請されたことが切っ掛けで本格的な専業トレーナーとなった。そして、次々とスター選手を誕生させた指導振りが大評判となり、後に交流のあった同じニューヨークのマンハッタン区にあるC.Y.O. GYMにスカウトされ移籍して専属チーフトレーナーに就任する。
間もなくして入門してきたロッコ・フランシス・マルケジャーノ(後のロッキー・マルシアーノ)と運命的な出会いから専任トレーナーとなった。その他の指導実績はNYSAC(ニューヨーク州公認)世界ミドル級王者アル・マッコイ、同NYSAC公認世界ライト級王者ロウ・アンバース、NBA(後のWBA)世界フェザー級王者ジョーイ・アーチボルド、また、歴史的名選手のシュガー・レイ・ロビンソンロッキー・グラジアーノと対戦して当時のファンを熱狂させたNBA世界ウェルター級王者マーティ・サーボなども育てあげた名トレーナーであった。



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チャーリー・ゴールドマンは指導者としてロッキー・マルシアーノに出会った時から日々のことを雑誌インタビューで語っている。

▼チャーリー・ゴールドマン教え子マルシアーノを語る。

「あいつは最初に会った日、ボソボソともの言う気の弱そうな印象だったんだ。アマチュア上がりでそこそこは基本が出来てると思ったが、そうではなかった。デビュー前からワシがずーっと面倒見たが基本から直す所がいっぱいあったね。パンチは人一倍あったが、動きはグニャグニャしてダメだった。まるでアコーディオンのジャバラのようだったなあ。構えるスタンスが悪いからガードもよくなかったしパンチを繰り出すコンビネーションも悪かった。
もう長いラウンドじゃヘタばると思ってもっと動作の速い運動をさせたり、長い距離を走らせスタミナを付けるようにさせたんだ。
デビュー戦は運よく3回KO勝ちしたが、力任せの腕力だけで倒してテクニックは全然ダメだった」

「なにしろヘビー級で戦うには体が小さいから長くは続けられないと思って途中でライトヘビー級を勧めたんだが、あいつは一番重いヘビー級にこだわったんだ。出来るだけ体重を増やそうとも思ったが動きが鈍くなるから無理に太らせることはしなかった。それよりもっと筋力とパワーを身に付けるメニューを立てたんだ。半年後には数段逞しくなってた。それが後々役に立ったと言うことだね。
リングネームもロッキー・マックからマルシアーノとなった時期、攻撃力は徐々にアップしたんだが動きのなさは相変わらずだった。まだ粗削りな部分もあってパワーだけで倒していた。ただパンチの威力だけは見違えるほど増していたんだよ。それでもまだ不安定だったから以前よりもっと走らせ持久力を付けて攻撃テクニックも進化させれば試合に活かせると思ったね。それをメニュー通り不満も言わずマルシアーノはやってくれたんだ」

「マルシアーノはワシが今まで見てきた選手の中で一番ハートのある奴で教えがいもあったよ。技術じゃまだぎこちなかったが誰よりも努力してた。それに練習が終わると後輩には面倒見のいい優等生だったね。ただリングに上がると時折指示も聞かず自分勝手に試合を進めるところがあって、それだけが唯一心配の種だった。
実力を試す一戦だった元王者ジョー・ルイスとの対戦は劇的KO勝利で完璧だった。もうあの時ばかりはワシも舞い上がったんだが、頂点まで行けると確信したんだ。あの日はマルシアーノが実力を証明できた忘れがたい日となったね。
その後の王者ジャーシー・ジョー・ウォルコットやアーチー・ムーアの時にゃダウンを奪われどうなることかと思ったがあいつらしい試合になった。パンチの破壊力も増して隙を見るのが上手くなっていたね。それにいつだったかKOした相手の心配ばかりしてた。クリスチャンだった所為もあったと思う。まあ、リングに上がった時だけ野獣になったのさ、プロボクサーとしてね」

「一番の思い出はやっぱりジャーシー・ジョー・ウォルコットを倒してマルシアーノが王座に就いた時だね。もうそれは足が地に着いてない思いだった。あの日は家に帰って暑い日も寒い日も同じ屋根の下で練習に取り組んだ日の事を思い出したよ。それから王者となって4年後に引退した時にゃ心配もしなかったさ。あいつなら人間的に出来てるから何の仕事もこなせると思っていたからね。ワシのトレーナー人生に神様が与えてくれた選手だったんだ。トレーナー冥利に尽きたと今でも心から感謝している。またいつの日か、何処かで会おう。ありがとうロッキー・マルシアーノよ!」
(SPORT誌1967年)

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スポート誌(SPORT)に掲載された翌年の1968年11月11日、マルシアーノが父親のように慕っていた名トレーナーのチャーリー・ゴールドマンは若い選手を指導中に心臓発作で倒れ、病院に搬送されたがそのまま帰らぬ人となった。
まさに、ボクシング一筋の人生でした。(享年80歳)

【1992年・国際ボクシング名誉の殿堂博物館 殿堂入り】

〜〜〜最終章に続く!(不定期更新)

【Charley Goldman Website&Wikipedia・参照】
【Rocky Marciano Biography&Wikipedia・参照】