★伝説の世界ヘビー級王者!ロッキー・マルシアーノ/名選手紹介・復刻再編集版(其の1) | ◆ ボクシングを愛する猫パンチ男のブログ ◆

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伝説のヘビー級王者ロッキー・マルシアーノ!



    ロッキー・マルシアーノは数々の名勝負を残したイタリア系アメリカ人の伝説的ヘビー級世界王者です。米国の1950年代ヘビー級は黒人選手がリングを席巻して群雄割拠していた時代、突如として現れた唯一の白人王者でした。
小柄ながらも無類の強打を武器にKOの山を築きヘビー級王者として王座を3年7ヵ月も保持して無敗のまま「もう、戦う相手はいなくなった!」という名台詞を残して引退したのはあまりにも有名です。

【ロッキー・マルシアーノ MEMO】
本名:ロッコ・フランシス・マルケジャーノ(Rocco F Marchegiano)
生年月日:1923年9月1日
国籍:米国(イタリア系米国人)
出身地:米国マサチューセッツ州ブロックトン
階級:ヘビー級
通称:ブロックトンの高性能爆弾(The Brockton Blockbuster)
身長/リーチ/体重/:180,3cm/173cm/体重はデビュー戦こそ増量して87Kgだったが、これ以降はBOXRECデータ確認で全盛期〜ラストファイトまで85Kg前後だった。※のちに身長178cmでリーチは170cmと訂正されヘビー級ではいかに小兵だったかが窺える。
スタイル:オーソドックス・ボクサーファイター
デビュー:1947年3月17日
ラストファイト:1955年9月21日
引退日:1956年4月27日
死没日:1969年8月31日(移動中のセスナ機の墜落事故により米国アイオワ州ジャスパー郡ニュートン村の農園で46歳を目前に死亡した)
【プロ生涯戦績】
49戦49勝(43KO)無敗
※引き分けなしの連勝記録は2017年8月26日、ラストファイトで5階級制覇王者のフロイド・メイウェザーJr.(米国)が50連勝達成するまで61年もの長い間、記録は破られなかった。
【獲得タイトル】
NBA世界(現WBA)ヘビー級王座6度防衛・在位期間1952年9月23日~1956年4月27日(引退により王座返上)
【アマチュア戦績】
14戦10勝(8RSC・KO)4敗 (BoxRecデータより)


S・スタローン主演映画『ロッキー』のモデル!

ロッキー・マルシアーノと言えば、米国の俳優シルベスター・スタローンが主演して大ヒットした映画『ロッキー』の題材モデルとされています。
同じイタリア系アメリカ人であるスタローンがまだ無名の駆け出し俳優だった頃、1975年3月24日、米国オハイオ州のリッチフィールド・コロシアムで行われたモハメド・アリチャック・ウェプナーの試合を観戦して感動し、これをヒントに同じイタリア系米国人として憧れであり尊敬していたロッキー・マルシアーノと絡ませスタローン自ら脚本を書き上げています。この映画のスタローン扮する主人公のロッキー・バルボアが蘇ったロッキー・マルシアーノと言って良いでしょう。そして、スタローンとマルシアーノの風貌がどことなく似ていたのも印象的でした。

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イタリアからの移民者であるマルシアーノの父親は小さいながらも靴店を営む腕のいい靴職人であった。そんな家庭の両親のもと1923年9月1日マサチューセッツ州ブロックトンに長男としてマルシアーノは誕生する。
幼少時代の呼び名は「ロッコ」のニックネームで通っていた。この頃は野球が大好きで小学校から帰ると街の仲間達と野球に没頭する毎日。将来はプロ野球選手になることを夢見ていたのでした。
マルシアーノが小学生だった頃は世界中が大恐慌に陥った時代でもあった。
そのあおりで父親の店も経営がままならず生活も苦しく、父親は製靴工場へと働きに出ることになります。おまけに次々と弟妹が誕生する。
そして、ハイスクールに入学しても野球を続けていたが、他の試合に出場したとして校則違反で退学させられてしまう。その後は家族を助ける為に、父親の働く同じ製靴工場で臨時の職工となります。
最終的には弟4人・妹2人の6人となる大家族となっていたのでした。
そして、安定した収入を得るために軍隊へ志願兵として入隊、兵役に従事することになった。この頃は第二次世界大戦が終戦を迎えようとしていた時期で否応なくイギリスへの従軍を余儀なくされます。その従軍先の時代に連合国のオーストラリア軍兵士と些細なことから殴り合いの喧嘩に発展したのを切っ掛けに護身用にと軍隊内にあるクラブでボクシングを始めたのでした。

3年後に兵役を終え除隊すると、皿洗いから始まり倉庫の荷出しやガス会社配管工などありとあらゆる仕事を転々としていく。
そして、その頃、プロ野球選手になる夢もあってシカゴ・カブスへのトライアウトも3年間経験します。それと並行してアマチュアボクシングのマサチューセッツ州ゴールデン・グローブ大会にも出場するなど14戦10勝(8KO・RSC)4敗の戦績を残しています。また、この頃、全米のオリンピック代表を選出するトーナメント(ニューヨーク・ブルックリン大会)に出場したものの、予選1回戦で敗退したことはあまり知られていません。
再び製靴工場で働きだした頃のある日、ふとした仲間の喧嘩に巻き込まれて仲間を助けようと喧嘩の発端者を殴ってしまい気絶させてしまう。
ところが、その相手はマサチューセッツ州の元アマチュアチャンピオンでプロからも勧誘されるほどの選手だったのです。
これが切っ掛けで、その助けた仲間にプロボクサーになることを強く勧められてしまう。アマチュアボクシングの一線から身を引いていたが、その勧めでプロボクサーになることを決心すると仕事をしながら街のジムにも通い出すのでした。時には町工場の片隅で開かれる駆け出し無名ボクサー達による賞金付きボクシング大会(セミプロ)にも出場して小銭を稼ぎながら技術を磨いていった。この頃は兄弟達の学費も稼がなくてはならない役目も背負っていました。

マルシアーノは米国民の英雄的存在だった(1938年6月22日ドイツ人元世界ヘビー級王者マックス・シュメリングジョー・ルイスの再戦試合)
ジョー・ルイスのニュース映像を映画館で何度となく見て「俺もああいう選手にならなければ、ボクシングをやる意味がない!」と憧れとともに自らを奮い立たせていった。23歳となっての遅いプロデビューはプロ野球のトライアウト挑戦やアマチュアボクシングの活動で仕方のないことだった。
マルシアーノはあくまでもヘビー級でのプロデビューにこだわっていました。
しかし、当時、現在の2階級下ライトヘビー級(79,38Kg)クラスの体重しかなくデビュー前にあえて体重増量に励んで無理矢理87Kgまで増やしたとされています。※注(当時のヘビー級体重設定は86,18Kg以上。現在のヘビー級体重設定は90,71Kg以上)
そして、1947年3月17日リー・エパーソン(米国)と対戦すると、アッサリ3回KO勝ちでプロデビュー戦を飾ったのでした。
当時は8階級(現在は17階級)しかなく当初は体格的にライトヘビー級を勧められたようだった。それでもマルシアーノがヘビー級でのデビュー戦に勝利したのは当然だったと言えるでしょう。
何故なら、アマチュアボクシングで14戦してセミプロでも10数戦の経験があったからだと言えます。また、この試合後にはプロ野球界入りを諦め切れずシカゴ・カブスのトライアウトに再々チャレンジするものの、またしてもカットされ断念、プロボクシングに専念することを決心したのでした。
そして、当時ニューヨーク市マンハッタン区にあった人気選手や名トレーナーのいるC.Y.O.GYMを鍛錬場所とした。プロでも充分活躍出来ると見ていたトレーナーに就いたチャーリー・ゴールドマンから本名のロッコ・フランシス・マルケジャーノでは名前が長すぎると指摘され、リングネームを「ロッキー・マック」と付けられ数試合を消化すると「ロッキー」には納得したものの「マック」という名に馴染めなかったといいます。ある日、ゴールドマンが「マルケジャーノだからマルシアーノではどうだ?」とマルケジャーノに問うと納得したのだった。結局「ロッキー・マルシアーノ」とリングネームを改名してこの名前に落ち着いたのでした。リングネームは本名のロッコ(Rocco =チェスの塔/イタリア語)のスペルが米国ではロック(Rock=岩石)となり、どちらも逞しいイメージとして使われるため強打者の意味を込めて付けたと言われています。しかし、当時すでにロッキー名でデビューして頂点に立ち絶大な人気を誇っていたミドル級世界王者ロッキー・グラジアーノ(映画「傷だらけの栄光」のモデル)も同じイタリア系アメリカ人として活躍していた。

マルシアーノはその後、連戦連勝を重ねてKOの山を築きながら4年の歳月が流れ、27歳となっていた。階級も一番重いヘビー級に落ち着いていたが、当時でも180cm・85Kgは小さく、殆んどの対戦相手がこれを上回っていた。 分りやすく例えれば、現役時代のマイク・タイソンを少し細くした体形だったと言えます。しかしながら並み居る大男達を次から次へと薙ぎ倒して37連勝(32KO)無敗と負け知らずであった。
やがて、米国中の評判となり人気上昇中だったマルシアーノにプロモーターから白羽の矢が向けられた。対戦相手はアマチュア時代からの憧れでもあった偉大なる元世界王者ジョー・ルイスからのオファーでマルシアーノは驚きと戸惑いを覚えて考え込んでしまったといいます。
一方、ジョー・ルイスはこの時、既に年齢も37歳となっていました。
1948年6月25日ジャーシー・ジョー・ウォルコットと対戦して11回KOで下して前人未到とも言える大記録の25度目(現在も破られていない)防衛を果たすと王座を返上して引退してしまいます。しかし、その後、ルイスはあらゆる事業を興したものの失敗を重ねて税金も滞納するなど莫大な借金を背負ったことで復帰して王座返り咲きを狙っていたのでした。
1950年9月27日、当時ルイスが返上して空位となったNBA(後のWBA)ヘビー級王座を獲得していた王者のイザード・チャールズに挑戦したのだったが、以前のように体が動かず、15回0ー3判定負けして王座返り咲きならず、無冠のままで成り下がっていました。

当初、マルシアーノはこの対戦に乗り気ではなかったという。
しかし、願ってもないオファーにマネージャーのジミー・オキーフや専任トレーナーとなっていたチャーリー・ゴールドマンが説得したのでした。
その説得に考え直したマルシアーノは尊敬するジョー・ルイスであっても上を目指すためにはオファーを断る訳にはいかなかったのだ。
心の中で「尊敬」という言葉が邪魔をしていただけでこのチャンスを断る理由は何もなかった。ましてやイタリア移民の子として世間には蔑(さげす)みの目で見られ差別を受けていたことから決心したといいます。
その後、マルシアーノは潔く対戦契約書にサインするのだった。
そして、メディアインタビューでは「僕にはイタリアの血が流れている。移民者の為にも、もう逃げる訳にはいかない。感動させるいい試合をして観客に米国民として認めて貰うことが僕に与えられた役目なんだ!」とコメントして自らを奮い立たせていった。

1951年10月26日、ついにその日がやって来た。
ジョー・ルイスロッキー・マルシアーノのチケットはノンタイトル戦にもかかわらず、飛ぶように売れてあっという間に売り切れたという。
そして、ニューヨークにあるマディソン・スクェア・ガーデンの会場は超満員に膨れ上がったのだった。

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歴史に残る数々の名勝負はここから始まった。

〜〜〜〜〜其の2に続く!

(其の1〜10最終章まで)


【Rocky Marciano Biography&wikipedia~より参照】