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        昭和の時代を足早に駆け抜けたたこ八郎!

この時期、♪夏がく〜れば思い出す〜遥かな尾瀬〜♪じゃなくてコメディアンで俳優だったたこ八郎さんを想い出します。
1982年10月に放送開始された「笑っていいとも!」(フジテレビ)の初期に出演していた頃、誰からも愛され人気者でした。
ブログにご訪問頂いた皆さんも名前は聞いたことがあっても、実際どんな人だったか知らない人達が殆んどでしょう。
「えっ!たこ八郎って誰?」という方はちょっと長いですがどうぞ最後までお付き合い下さい。

(笑っていいとも出演時のたこ八郎さん)


テレビ、映画で活躍していたたこ八郎さんは1985年7月24日、神奈川県足柄郡真鶴町の海水浴場で朝から友人やスタッフと飲酒しながら海に入り心臓麻痺を起こして人気絶頂期に44歳の若さで帰らぬ人となったのでした。
7月24日が命日でこの世にいれば今年83歳を迎えています。
もう現在は「弔い上げ」となっているんでしょうか?

たこさんの芸能界入り前は元プロボクサーで世界戦には恵まれなかったものの、第13代日本フライ級王者として活躍した選手だったのです。そして、現役引退後は喋り方が東北訛りで吃音がちだったことから巷ではパンチドランカーなどと陰口を叩かれながらもたこさんはボクサー出身のコメディアン兼俳優(後にバラエティー番組進出)として草分け的存在でもありました。

(ボクサー現役時代の河童頭だった頃)

(東映の人気任侠映画出演時のたこさん)


後楽園ホールを沸かせたボクサー時代!

時は1960年代初頭の後楽園ホールに河童が現れたのです。
「うわ~ッ、カッパだ~ッ、カッパ~ッ!」と立錐の余地もなく埋ったホールの観衆は度肝を抜かされ失笑から大爆笑に変わっていきました。その正体とは「河童の清作」こと斎藤 清作で頭のてっぺんを剃りあげ颯爽とリングに登場してくるのでした。
戦いぶりはというと、両手を下げてノーガードで打たせるだけ打たせて相手が打ち疲れて怯んだところで猛反撃して終わってみると相手は打ちのめされていたのです。この突拍子もないパフォーマンスの主はのちに俳優やコメディアン兼タレントとして人気者となった「タッ、タ~ッコで~す!」たこ八郎なのでした。
ボクサー時代の頃から人を笑わせる素質は十分にあったようです。

しかし、河童頭で登場したのには理由があったのです。
彼は小学校低学年時(何年生かは不明)に田んぼで泥んこ遊びをしていたとき友達が投げた泥んこ玉が左目にあたり、それが原因で左目は殆ど視力をなくしていたのでした。たこさんによれば親に知られると叱られると思い何もなかったかのように過ごしたという。
人を笑わせるというよりも、頭のてっぺんを丸く剃って対戦相手の気をそらせて目の悪さを隠すための作戦と暑さよけもあったと、後に語っています。では何故、目が悪くてプロボクサーになれたのかと言うと、プロテストの視力検査の時に前もって視力表を丸暗記してパスしたのだといいます。元々、斉藤清作は宮城県私立仙台育英学園高等学校のボクシング部2年生時にアマチュアの県大会(高校生の部)モスキート級で優勝の経験を持ち、技術的にはボクサーとしての下地はあったのでした。すなわち、高校時代のボクシング部でも左目の不自由を隠し通したことになります。そして、高校を卒業すると上京して職を転々としながら過ごします。

ただ、ボクサーを目指しての上京ではなく、この頃人を笑わせることが好きで実際はコメディアンを夢見ての上京だったといいます。
そこで、何番目かの職業で映画のフィルム管理会社に勤めていれば芸能関係者に会えるだろうというたこさんらしい理由でコメディアン目指して就職したのでした。仕事はフィルムを自転車で映画館に運ぶ仕事だった。ところがある日、仕事が終わって帰宅する途中に笹崎ジム(目黒区)の看板が目に飛び込んできて血が騒ぎ、窓の外から練習風景を覗いていると掃除をしていたジム会長の奥さんらしき女性に「ボクシング好きなのかい!」とジム内に招き入れられると練習生を食い入るように長い時間眺めていたといいます。
ボクシングから遠退いていたが、時間が経つと雰囲気に誘われるように入門を決意したのでした。ジムには後に日本人初の2階級世界制覇王者となるファイティング原田(原田政彦)も所属していた。

斉藤清作は練習を重ねて難なくプロテストに合格するといよいよ後楽園ホールのリングに立つことになります。
1960年9月5日、吉田 貞吉(興伸)と戦うと、昔取った杵柄で4回判定勝ちを収めてプロデビューを果たす。
その後は素質も開花してめきめきと頭角をあらわし東日本新人王戦に出場すると、準決勝まで勝ち進んだのでした。
しかし、この年の秋にはまさかの事態が起きてしまいます。
新人王戦はトーナメント方式で行われる為、別グループから勝ち上がってきたファイティング原田とぶつかり同門対決となってしまったのです。この前代未聞の事態にジムはもとより主催する東日本ボクシング協会も前例がなく頭を抱えてしまいます。
当時、ボクシング界としての身内同門対決は時代背景からして罷(まか)りならないものだったといいます。どちらかが身を引くしかなかったのです。結局、斉藤清作に怪我が長引いていたこともあって、ジム側との話し合いで斉藤清作が辞退することになります。
※(昔からJBCでの同門対決禁止の規定はなく、現在は新人王戦などでは数試合の対戦例があります)
そして、結果的にはファイティング原田が準決勝、決勝を勝ち抜き見事に東日本新人王に輝いたのでした。波に乗ってついには全日本新人王も獲得する。

その後、辞退した斉藤清作は心情からして試合に出たい気持ちはやまやまだったはずだが、ファイティング原田の前では一切不満を口にする事はなく、かえって切磋琢磨して友情を深めたといいます。
そんな出来事はなかったかのように斉藤清作は戦い続けた。
1960年9月のデビューから34戦29勝(10KO)4敗1分の戦績を積み上げニックネームも「河童の清作」と呼ばれるようになって人気を高めていきました。
1962年12月28日(昭和37年)打たせて打つ戦法のために怪我も多く35戦目にしてやっとの思いで日本フライ級王座への初挑戦となった。当時世界戦経験者で日本フライ級王者の野口 恭(野口)に挑戦すると大方不利の予想を覆し壮絶な打撃戦を制して10回判定勝ちを収め見事王座を手にしたのでした。



たこさんのボクサー時代を追ったドキュメント風の映像が残されていました。貴重な映像をどうぞ!(4分19秒)


1963年2月19日、日本フライ級王座を保持したままノンタイトル10回戦でこれに勝てば世界挑戦も約束される試合(挑戦者決定戦)を、後のWBA世界フライ級王者大場 政夫(帝拳)とボクシング史に残る大激闘を演じることになる世界ランカーのチャチャイ・チオノイ(タイ)と戦うとキャリア初の8回TKO負けを喫して世界挑戦の夢は絶たれてしまう。
その後、1963年4月14日、ビリー・ブラウン(比国)とノンタイトル10回戦で戦い判定勝ちして再起を飾った。
現在ではあまり例のない試合間隔1カ月ちょっとの1963年5月17日、前王者だった野口 恭との再戦で5回TKO勝ちの返り討ちで日本フライ級王座の初防衛に成功した。
1963年11月14日、2度目の防衛戦では堤 五郎(興伸)と戦って打ち勝ち10回判定で退ける。
1964年(昭和39年)4月2日、3度目の防衛戦では当時実力者とされた飯田 健一(三鷹)の挑戦を受け対戦すると、壮絶な打撃戦の末に10回判定負けを喫して王座から陥落してしまう。
結局、この試合を最後に体力の限界を悟って現役引退となったのでした。そして、かねてからの夢であり念願だったコメディアンを目指していくことになります。

無二の親友ファイティング原田氏の回想!

元2階級世界制覇王者で同門の親友だったファイティング原田氏は雑誌インタビューで「試合での展開はたいてい対戦相手に打たせるだけ打たせておいて、耳元で(効いてない、効いてな~い!)と囁きながら、相手選手が打ち疲れたところで猛反撃して試合が終わってみると、相手選手は打ちのめされていました。打っても、打っても倒れないで効いた素振りを見せないからさぞかし対戦相手も斉藤は怖かったと思いますよ」と当時の斉藤清作の戦いぶりを懐しく振り返っている。

また、 たこ八郎自身もボクサーになった経緯を人気絶頂期にテレビ番組で語っていた。「僕はね、ほんとのこと言うとボクサーじゃなくて元々コメディアン俳優になりたくて宮城から上京したんだ。まぁ、たまたま途中からジムに入門して取りあえずボクシングで名前を売ってからという気持ちに変わったんだけどね」「現役時代には同郷出身で憧れのコメディアンスターだった由利 徹師匠のところに弟子入りしようとして自宅に伺ったら(チャピオンになったら来なさい。そうしたら弟子にしてやるよ!)と言われて死に物狂いで練習したからね。ベルト巻かなきゃ次の夢に向かって行けないから必死だったんだよ。だから、チャンピオンになれたんだけどね」と本人も当時を懐かしむように語っていた。
しかし、師匠の由利 徹はあるテレビ番組で「たこにチャンピオンになったら来なさい、と言ったのは断る口実だったんだよ。まさか王者になるとは微塵も思ってなかったしね。でも、成し遂げる根性があったから弟子にしたんだよ」と明かしていた。

脇役舞台修行から日の目を見た!

斉藤清作は日本王者に登りつめてから「河童の清作」として人気者になり、抱いていた「まず、ボクシングで名を売ってからコメディアン修行」という思いには辿り着いたのでした。
ボクサーを引退すると、憧れの由利 徹に弟子入りが許され早速、由利宅に住み込んでの出発だった。そこから師匠の舞台公演などで脇役の下積み生活が始まり徹底的に演技を仕込まれていく。しかし、由利宅ではパンチドランカーの症状もあって何度か寝小便を漏らして居辛くなりその後は友人宅に身を寄せたといいます。(笑)
ボクサー時代の「河童の清作」から芸名「たこ八郎」へと役者稼業に変わると売れない時代も長く続いた。そんな中、住んでいた近くの新宿ゴールデン街には毎晩のようにどこかの酒場にいたという。
修行の身でありながら毎晩酒を呑めた理由にはツケを許されたからだった。時には東北訛りをからかわれて酔った勢いで暴力沙汰を起こしても酒場の出入り禁止などにはならずかえって親しみを持たれたと当時の居酒屋店主は語っている。また新宿ゴールデン街の他のパーやスナックの店主はたこさん目当てにくる客も多くかえって繁盛に貢献してくれたことでツケは請求しないことに決めていたと雑誌などで語られいる。これもたこさんの憎めない人柄からでしょう。 この頃、同じ店で飲んでいた客と些細なことから喧嘩となり右耳を噛みちぎられ三分の一を欠損している。そんな酒浸りの生活ながらも師匠の人情喜劇の舞台ではあえて東北訛りのセリフを与えられ笑いを取ると次第にクチコミとともにメディアでも紹介され評判となった。そして、役者ぶりも板に付くと徐々に仕事も増え映画、テレビへと活躍の場が広がっていくのでした。

1970年、高倉 健主演のシリーズ映画『新・網走番外地』(東映)にチンピラ役で出演。この出演が切っ掛けでシリーズ4作に出演してチンピラ役をやらせれば右に出る者がいないと言われるほど嵌(はま)り役となり、その後も東映の任侠映画出演は続いた。
1973年、小川真由美主演の探偵ドラマ『アイフル大作戦』(TBS)へのチョイ役でテレビ界へも進出。
1977年、高倉 健主演の大ヒット映画『幸福の黄色いハンカチ』(松竹)では武田 鉄矢・高倉 健に因縁をつけるチンピラ役で僅か数分の出演ながらも迫真の演技を披露した。
特に、大ブレイクしたのは1978年のTBSテレビ系列で放送されたコメディドラマ『ム~一族』への出演(憎めないチンピラの八郎役)で東北なまりのセリフで茶の間を笑わせる演技で“たこ八郎”の名前が全国的に知られるようになって一躍人気者になったのでした。80年代に入ってもその風貌と独特な語り口が重宝がられテレビ、映画と数多く出演しています。また、芸名「たこ八郎」の由来は、足繁く通った行きつけの居酒屋「たこ久」から貰ったと、後に語っていました。

そして、人気絶頂期の1985年(昭和60年)7月24日の午前中、神奈川県真鶴町の海水浴場で友人、スタッフと飲酒しながら泳いで心臓麻痺をおこして突然の死去。
この訃報はレギュラー出演していた『笑っていいとも!』(フジテレビ)の番組で司会者のタモリによって生放送中にいち早く全国に伝えられていました。その日は「え~っ、たこちゃんが死んじゃったんだ!」とその訃報に日本中が悲しんだのでした。
葬儀では葬儀委員長を赤塚 不二夫(漫画家)が務めていた。
弔問に訪れたタモリは哀しみの中「たこが海で死んだ。なにも悲しいことはない!」と笑いを盛り込む弔辞を述べ死を悼んだ。
ワイドショー番組の葬儀模様では師匠だった由利 徹が「あの、たこ野郎!俺より先に逝きやがって、なんてことするんだ。うぅぅ~」と嗚咽しながらインタビューに答えています。
亡くなる前年の84年にはNHK総合の銀河テレビ小説でたこ八郎の半生を描いた自伝的ドラマ『迷惑かけてありがとう』(たこ八郎役柄本 明)を自らの座右の銘がタイトルとなって6月4日から6月29日まで放送され大好評を得て益々人気を高めたのでした。
また、この時期はテレビコマーシャルでもサントリー、金鳥マット、エースコック、宝酒造、オートバックスと引っ張りだこだったのです。亡くなって5年経った1990年3月5日にはTBSテレビ系列の2時間単発ドラマ(月曜ドラマスペシャル)で後半生を描いた『昭和のチャンプ たこ八郎物語』が放送され、斉藤清作(たこ八郎)役を片岡 鶴太郎が演じ、同門のファイティング原田役を元WBA世界Lフライ級王者でタレントに転身して人気者となったトカちゃんこと渡嘉敷 勝男が演じ高視聴率をマークして話題となりました。そして、この年全日本テレビ制作社連盟が毎年主催するテレビ放送の優れた作品を選ぶATP賞の「優秀賞」を受賞しています。これはDVDなど発売されてないようでユーチューブで小分けながら視聴できます。是非、ご覧下さい。

河童の清作として活躍していたボクサー時代はちょうどアジア初の東京オリンピック(1964年)を控えていて、ビル建設や道路整備工事、新幹線工事の建設ラッシュで「オリンピック景気」と呼ばれていた時代でもありました。当時の斎藤清作の試合映像をみると後楽園ホールは今以上に盛り上がり超満員の観客で埋まってその型破りな戦い振りと、奇抜な姿に人気があったということです。
そして、ボクサーの憧れでもある後楽園ホールが名勝負・名選手を生んで日本の聖地として「ボクシングの殿堂」と呼ばれるようになったのもこの時代だったようです。

【たこ八郎 MEMO】
本名:斉藤 清作
出身地:宮城県仙台市宮城野区新田
誕生日:1940年(昭和15年)11月23日
死没日:1985年(昭和60年)7月24日(享年44歳)

〈ボクサー時代〉
★リングネーム:斉藤清作
★通称:河童の清作
★身長/リーチ:158cm〜160cm(諸説あり)/不明
★戦績:43戦34勝(11KO)8敗1分
★獲得タイトル:第13代日本フライ級王座(防衛2度/1962年12月28日~1964年4月2日)
★スタイル:右・ボクサータイプ(後にスイッチヒッター)

〈芸能界時代〉
★芸名:たこ八郎(太古八郎名義もあり)
★通称:たこちゃん
★キヤッチフレーズ:「タッ、ターッコで~す!」
★座右の銘:「迷惑かけて、ありがとう!」

〈日本フライ級王者時代〉1962年~1964年
たこさん、さすがに日本王者となってからの河童頭はなかったようです。(定かではありませんが?)



〈幸福の黄色いハンカチ〉松竹・1977年
武田鉄矢、高倉健に絡むチンピラ役で出演。
僅か数分のチョイ役ながら迫真の演技でした。健さんに絡むシーンを山田洋次監督から演技指導を受けるたこさん。
※左端は桃井かおり。



〈笑っていいとも!〉フジテレビ・1982年~2014年
番組がスタートした翌年からの初期にレギュラー出演していた。
オープニングでは「タッ、タ~ッコで~す!」といって登場して人気者だった。




たこさんは、数え切れないほどのテレビ、ラジオ、映画に出演し昭和という時代を足早に駆け抜けていきました。
人を笑わせ、楽しませて誰からも愛され惜しまれながらこの世を去っていったのでした。〜合掌


〈たこ地蔵〉
たこ八郎さんが亡くなって、師匠だった由利 徹さん(コメディアン俳優=故人)を筆頭に親友だったタモリ、赤塚 不二夫(漫画家=故人)、山本 晋也(映画監督)さんらが発起人となって建てられたお地蔵さんが存在するのです。
お地蔵さんにはたこさんの座右の銘だった「めいわくかけて、ありがとう。」が刻まれていて命日にはたこさんファンだった人達が全国から訪れる人気スポットとなっています。

所在地・東京都台東区下谷2ー10ー6「法昌寺」

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《IBF世界ウェルター級タイトルマッチ》
開催日:7月13日(日本時間14日)
開催地/会場:米国ペンシルベニア州フィラデルフィア/ウェルズ・ファーゴ・センター




IBF世界ウェルター級王者
ジャロン・エニス(27=SH/USA)
VS.
IBF同級13位・元WBA世界同級王者
ダビド・アバネシアン(35=O/RUS)


王者エニスの圧勝TKO勝ちV2成功!

〈試合経過〉
初回〜2回と王者エニスがスイッチを混じえてボディー攻めから左フックとアバネシアンに隙を与えず早くもリードした。
3回〜4回もエニスが同じようにボディーから右アッパー、フックと上下に打ち込み完全リード。アバネシアンも右フック、右アッパー、左右ボディーと反撃を見せるもののエニスの上下被弾で明らかにダメージが目に見えた。

迎えた5回、打ち合いからアバネシアンは右アッパーを突き上げたがエニスは効いた様子はない。終盤に差し掛かった場面でエニスがボディーから左フックを打ち込むとアバネシアンはたまらずダウン。立ち上がって再開に応じたアバネシアンは追撃に耐えゴングに救われた。しかし、インターバルでレフェリーがアバネシアンにドクターチェックを促す。結果は深いダメージの残るアバネシアンにドクターは続行不可を告げて試合終了となった。

ーTKO・5回終了時深刻なダメージでドクターストップー

エニスがIBF世界ウェルター級王座の2度目防衛に成功した。
エニスは12カ月ぶりの防衛戦を地元で圧勝した勢いもあってWBAスーパー&WBO世界同級統一王者テレンス・クロフォード(米国)の名を挙げ統一戦を呼びかけた。しかし、クロフォードはSウェルター級に転向する可能性もあることから続いてWBC世界同級王者マリオ・バリオス(米国)の名も付け加えた。
統一戦となればエニスは王者としてまだ浅くこれといった大物との対戦がなくネームバリューもまだ世界的ではないところがネックとなるでしょう。ただ、ウェルター級では今一番元気があり倒しっぷりは怖れられているようだ。果たして、エニスの次戦は熱望してやまない統一戦となるのか注目です。

元WBA世界同級王者のアバネシアンは王者返り咲きに失敗した。
WBA王座から陥落後はEBU欧州ウェルター級王座を5度防衛するなどして復活、WBO世界同級王者のテレンス・クロフォード(米国)にWBOランキング6位として挑戦も6回KO負け。再起戦で4回TKO勝ちして辛くもIBF13位にランクされていたことで今回防衛戦に抜擢されたが力及ばず敗れ去った。来月36歳となるアバネシアンは深いダメージを負ったことで今後の動向が注目される。





(Photos by boxingscen.com)

それでは王者エニスが元王者アバネシアンに圧勝TKOで2度目防衛に成功したシーンをどうぞ!(2分28秒)
※途中消除の場合ありです。


【両選手の戦績】
★ジャロン・エニス/33戦32勝(29KO)1NC無敗
★ダビド・アバネシアン/36戦30勝(18KO)5敗1分








《NABF北米&NABO北米ライト級TM》
ー10回戦ー

開催日:7月13日(日本時間14日)
開催地/会場:米国ネバダ州ラスベガス/パームス・カジノ・リゾート



(王者ジャニベクの体調不良により中止)


当初はIBF&WBO世界ミドル級王者ジャニベク・アリムハヌリ(カザフスタン)VS.アンドレイ・ミハイロビッチ(ニュージーランド)による無敗同士のタイトルマッチがメイン予定だったが、計量前日、王者ジャニベクが減量中に重い脱水症を引き起こして病院へ搬送されたという。マネージャーによると歩くことさえ困難で止む無く試合中止を願い出たとした。従って、セミがメインに繰り上がった。

NABFライト級王者
WBC&WBO同級2位・IBF4位

レイモンド・ムラタラ(27=O/USA)
VS.
WBO同級12位・元IBF世界Sフェザー級王者
テビン・ファーマー(33=S/USA)

〈試合経過〉
序盤戦はムラタラがサウスポーのファーマーを左ジャブから右ストレートで攻め優位に進めた。中盤戦に突入すると左ストレートを浴びせるテクニシャンのファーマーにムラタラは手こずる。しかし、後半戦はムラタラが手数を増やし終盤戦は右ストレートから連打を浴びせファーマーをよろめかせて引き離しゴングとなった。

〈10回採点結果〉
95ー94(ムラタラ)
96ー93(ムラタラ)
97ー92(ムラタラ)

ムラタラが3ー0判定勝ちでNABF北米ライト級王座2度目防衛成功とともに懸けられたNABO北米王座も獲得した。そろそろ世界挑戦の声も掛かりそうでしょうが、どうやら技巧派は苦手なようだ。次戦に注目したい。

元IBF世界Sフェザー級王者のファーマーはライト級転向後3連勝と波に乗っていたが、さすがに若いランキング上位者には敵わなかった。ベテランとなったファーマーは果たしてライト級のトップ戦線に絡むことができるのか・・・


(Photos by fightnews.com)

ムラタラがベテランの元王者ファーマーに判定勝ちしたシーンをどうぞ!(2分41秒)
※途中消除の場合ありです。


【両選手の戦績】
★レイモンド・ムラタラ/21戦21勝(16KO)無敗
★テビン・ファーマー/41戦33勝(8KO)6敗1分1NC










《Sバンタム級ノンタイトル12回戦》
開催日:7月10日(木曜日)
開催地/会場:豪州NSウェールズ州ウーロンゴン/ウィン・エンターテイメント・センター




IBF世界Sバンタム級1位・WBO同1位
サム・グッドマン(25=O/AUS)
VS.
WBC世界Sバンタム級8位・前WBCアジア同級王者
チャイノイ・ウォラワット(27=O/THA)


井上への挑戦権持つグッドマン判定勝ち!

〈試合経過〉
無敗同士対決!

序盤戦はグッドマンが接近して左ボディー、左フックと浴びせチャイノイに差を付け主導権を握ったかに見えた。しかし、途中からチャイノイも引かず左右強打を浴びせるなど対抗して元WBCアジア王座9度防衛の片鱗を見せて回を重ねる。
6回、グッドマンがジャブから左フックを浴びせるとチャイノイも負けじと左右アッパー、右カウンターと反撃を見せる。
9回、チャイノイが接近して右から左右アッパーでグッドマンを慌てさせた。終盤戦に突入するとチャイノイは時折スイッチして左右で撹乱を図るもののグッドマンに動きで外され左右を浴びてやや劣勢気味。最終回、不利と見たチャイノイは突進して左右で逆転を狙ったが、ここもグッドマンに上手く躱されゴングとなった。

〈12回採点結果〉
117ー111(グッドマン)
117ー113(グッドマン)
119ー109(グッドマン)

グッドマンが3ー0大差判定勝ち。
試合内容は上下に打ち分け優位に進めた一方でチャイノイの右を被弾する場面も多かった。採点はせいぜい4、5ポイント差が妥当でしょう。またグッドマンは4回〜6回の間に左拳を痛める代償も負った。戦いぶりはお世辞にも井上の強敵とは言い難いところ。
当初グッドマンは井上の9月開催予定の対戦候補に挙がったが辞退して今回世界前哨戦と銘打って試合を強行した。
そんな中、井上陣営はグッドマンを諦め次に浮上したのがWBO2位で元IBF世界Sバンタム級王者TJ・ドヘニー(アイルランド)の名が挙がり有力視されている。それに12月の試合予定もWBA団体から対戦指令が出されたWBA1位で元WBAスーパー&IBF王者ムロジョン・アフマダリエフ(ウズベキスタン)との対戦も浮上してきた。つまりグッドマンは"蚊帳の外"状態となった。
グッドマンに可能性があるとすれば井上のアフマダリエフ戦が成立せずWBA王座を返上するか剥奪された場合は戦うことになるかもしれない。前哨戦に勝利したものの果たして今後どうなるか・・・

無敗で格上相手に挑んだチャイノイは絶好の飛躍チャンスを逃してしまった。3団体上位ランキング者に勝っていれば当然上位にランクインする可能性はあった。チャイノイには左右フックと右ストレートにはかなりの強打を持ち合わせていたものの当て勘(正確性)が今一悪く悔いの残る戦いだった。もっと反射神経と打つタイミングを鍛え直せば上に行ける選手でしょう。ウォラワットには再浮上に期待したいところ。



(Photos by boxing247.com)

グッドマンがウォラワットに判定勝ちしたシーンをハイライトでどうぞ!(6分55秒)
※途中消除の場合ありです。


【両選手の戦績】
★サム・グッドマン/19戦19勝(8KO)無敗
★C・ウォラワット/27戦25勝(15KO)1敗1分
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《フィリピン歴代世界王者一覧》

フィリピンは昔から日本と競い合うように軽量級世界王者を輩出してきたライバル国です。数年前まではミニマム級〜Sバンタム級まで3、4人の王者がいましたが世代交代でしょうか、現在は今年3月31日、WBC世界ミニマム級王者重岡 優大(ワタナベ)に挑戦して激戦の末、競り勝ち12回2ー1で王座を手にしたWBC世界ミニマム級王者メルビン・ジェルサレムのみとなっています。
しかし、4団体の軽量級ランキングを覗くとフィリピン選手も数多くランクインしていることで今後も更に日本人選手と絡むことが多くなるかもしれません。そして、アジアからマニー・パッキャオ井上 尚弥に続くスーパースターが誕生することを期待したい。

それではフィリピンの歴代世界王者一覧をどうぞ!(6分51秒)

(1923年〜2023年までの王者)

(YouTube by Geeno's fight)
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《WBA&IBF世界Sフライ級王座統一戦》
開催日:7月7日(日曜日)
開催地/会場:東京都台東区蔵前/蔵前国技館




WBA世界Sフライ級王者
井岡 一翔(35=O/SHISEI)
VS.
IBF世界Sフライ級王者
フェルナンド・マルティネス(32=O/ARG)


マルティネスが判定勝ち王座統一成功!

〈12回採点結果〉
116ー112(マルティネス)
117ー111(マルティネス)
120ー108(マルティネス)

マルティネスが3ー0大差判定勝ちでIBF王座3度目防衛とともにWBA王座も獲得して2団体王座統一に成功した。

井岡は王座統一に失敗、5年7ヶ月ぶりの黒星で無冠となった。
果たして、再戦を希望するのかそれとも現役引退なのか・・・




(Photos by nikkansports.com)

王座統一戦をハイライトでどうぞ!(5分10秒)
※途中消除の場合ありです。


【両選手の戦績】
★井岡 一翔/35戦31勝(16KO)3敗1分
★フェルナンド・マルティネス/17戦17勝(9KO)無敗










《WBC世界ライト級タイトルマッチ》
ーundercardー
《WBC世界Sフェザー級タイトルマッチ》

開催日:7月6日(日本時間7日)
開催地/会場:米国ニュージャージー州ニューアーク/プルデンシャル・センター




WBC世界ライト級王者
シャクール・スティーブンソン(27=S/USA)
VS.
WBC世界同級7位
アルテム・ハルチュニャン(33=O/GER)


〈試合経過〉
初回、サウスポー王者スティーブンソンはハルチュニャンのジャブを上手く躱して様子見の展開で始まった。
3回、スティーブンソンが手数を増やしてワンツーからボディー攻めとハルチュニャンの攻めを封じ始める。
5回、接近しての攻めの探り合いはハルチュニャンの打ち気を誘いスティーブンソンは左右連打で差を広げた。
後半戦突入もスティーブンソンが左ストレート攻めで突き離す。
10回〜11回とハルチュニャンも右ストレートから左右で巻き返すかに見えたがあとが続かない。結局、スティーブンソンが明らかにリードしているものの最後まで見せ場のなさにブーイングを浴びる中、ゴングとなった。

〈12回採点結果〉
119ー109(スティーブンソン)
118ー110(スティーブンソン)
116ー112(スティーブンソン)

スティーブンソンが3ー0大差判定勝ちでWBC世界ライト級王座の初防衛に成功した。しかし、前回同様今回もブーイングを浴びてしまった。今年初めフリーエージェントを宣言していたスティーブンソンはトップランク社との契約が最後となったが何処へ行く。
フリーでは予てから語っていたビッグマッチは難しい。従って何処かに所属することになるのは明らかだ。PBC(プレミアム・ボクシング・チャンピオンズ)かマッチルームUSAなのか・・・

世界初挑戦のハルチュニャンは王座に届かなかった。
序盤は手数も多く接戦だったが3回以降は王者の的確な左右を貰い始めてスタミナを削がれてしまった。突き返す強打パワーがあれば挽回も考えられたが、それがない分飲まれていった印象。果たして再起してランキングに留まれるか。


(Photos by fightnews.com)

スティーブンソンが完勝して初防衛に成功したシーンをハイライトでどうぞ!(2分11秒)
※途中消除の場合ありです。


【両選手の戦績】
★シャクール・スティーブンソン/22戦22勝(10KO)無敗
★アルテム・ハルチュニャン/14戦12勝(7KO)2敗





ーundercardー
《WBC世界Sフェザー級タイトルマッチ》


WBC世界Sフェザー級王者
オシャキー・フォスター(30=O/USA)
VS.
WBC世界同級1位
ロブソン・コンセイサン(35=O/BRA)


コンセイサン世界挑戦4度目で王座獲得!

〈12回採点結果〉
116ー112(コンセイサン)
116ー112(フォスター)
115ー113(コンセイサン)

コンセイサンが2ー1のスプリットも判定勝ちで4度目の世界挑戦でWBC世界Sフェザー級王座を獲得した。コンセイサンはリオ五輪ライト級の金メダリストから鳴り物入りでプロデビューも3度の挑戦は手数は多いものの決定打に欠き手は挙がらなかった。
今回はジャッジが有効打で優勢と取ったのか、ようやく頂点に立った。しかし、前王者の再戦要求に再び戦うことになるか・・・

王者フォスターは3度目防衛に失敗、王座から陥落となった。
フォスターは序盤から積極的に左右コンビネーションで攻め後半戦も相手の攻めを躱しながらジャブ、右ストレートを当てたがアピール度が届かなかったのか手は挙がらなかった。フォスターは終了後、直ちに再戦を要求した。


(Photos by fightnews.com)

コンセイサンが4度目世界挑戦にしてようやく王座を手にしたシーンをハイライトでどうぞ!(2分15秒)
※途中消除の場合ありです。


【両選手の戦績】
★オシャキー・フォスター/25戦22勝(12KO)3敗
★R・コンセイサン/23戦19勝(9KO)2敗1分1NC


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アジア人初の世界王者パンチョ・ビラ!



アジアのボクシング界でフィリピンの初代世界王者を語らずして始まらない。日本人初の世界王者白井 義男(1952年)より29年も遡ること1923年にアジア人初の世界王者として偉業を成し遂げた選手が存在した。日本では随分あとになって新聞や雑誌などで紹介され有名となったパンチョ・ビラです。
ビラはメキシコの革命家で度々映画化(西部劇風)されモデルとなったパンチョ・ビリャ(Pancho Villa)と名前のスペルが同じでよく混同されがちです。では何故メキシコ以外の遠く離れたフィリピンで同姓同名のヒーローが誕生したのかは理由がありました。

(本家メキシコの革命家パンチョ・ビリャ)


ビラの本名はフランシスコ・ビラルエル・ギュレドとスペイン語圏風の長い名前です。フィリピンにスパニッシュ風の名前が存在するのはスペインに300年以上もの長い間統治された時代があった名残からでしょう。ビラがボクシングを習い始めた時代メキシコの独裁政権を打ち倒した革命戦士としてすでにパンチョ・ビリャの名はフィリピンにも伝わり立志伝中の人物として有名だった。ビラは同じ下層階級出身で境遇も似ていたことからその革命家の勇敢さに心打たれ尊敬していたようです。そして、憧れもあってその名を借りリング名としたのでした。

ビラは17歳だった1919年1月1日、地元マニラ市で104ポンド契約(47.174Kg)の4回戦をアルベルト・カストロ(比国)と戦い3回KO勝ちデビューを飾った。
55戦目(49勝1敗3分2無判定)までを地元フィリピンで戦いその間、階級を上げOBF(OPBF前身)東洋バンタム級王座も獲得している。尚、フィリピンの専門ネットによると地元でのリングネームは本名を短くした"フランシスコ・ギュレド"で戦っていたようです。そして、当時の米プロモーターから勧誘を受け56戦目からは大きな夢を求めて本場の米国へと渡ることになった。
63戦目に米国フライ級王座決定戦をニューヨークシティのエベッツ・フィールドでジョニー・バフ(米国)と戦い11回TKO勝ちで王座を獲得すると一躍注目され知名度を上げた。
その後米国フライ級王座は2度目防衛戦でフランキー・ジェナロ(米国)に15回1ー2の僅差判定負けで王座から陥落してしまう。

しかし、再起して新聞社主催の記者採点試合を含め5戦4勝1敗の戦績でそれまでの実績が評価され78戦目で世界戦に抜擢される。
1923年6月18日、米ニューヨークシティのポロ・グラウンズで当時NBA&ニューヨーク州公認世界フライ級王者で人気スターだったジミー・ワイルド(英国)に世界初挑戦となった。
試合は序盤から王者ワイルドの左右を浴びてビラは大苦戦する。
しかし、徐々に巻き返して挽回、ついには7回ビラが怒涛の左右フック連打を浴びせるとワイルドは気を失うように前のめりにバタンと失神ダウン。王者はうつ伏せのまま立ち上がれずビラの見事な逆転番狂わせKO勝ち。アジア人として初めて世界王座を獲得した瞬間だった。ワイルドは顔面から倒れる危険な倒れ方で陣営によってコーナーへと運ばれた。当時、ワイルドはフライ級最強王者(5度防衛中)との呼び声高くそれを破ったことでアジアにも実力ある選手が存在することを知らしめた世界タイトル戦であった。




小柄なパンチョ・ビラは前半戦を王者ジミー・ワイルドに攻め込まれたが、徐々に巻き返し挽回すると7回左右連打の猛攻でワイルドは前のめり失神ダウン。劇的逆転KO勝ちでアジア人初の世界王座獲得となった。そして、100年以上前の衝撃シーンは遺されていました。貴重な映像をどうぞ!(2分11秒)



その後、2度防衛してスターダムへと登り詰めたパンチョ・ビラは1925年5月2日、地元凱旋試合をマニラのウォーラス・フィールドで当時有望株とされたクレバー・センシオ(比国)と戦い15回3ー0(採点不明)判定勝ちを収めて3度目防衛に成功した。
しかし、活動拠点の米国へ戻ると何故か王座を返上してしまう。
そんな中、1925年7月4日、試合地カリフォルニア州エメリービルの歯科病院で親知らずを抜歯したまま若さの勢いでノンタイトル10回戦をジミー・マクラーニン(カナダ)と戦いまさかの10回(採点不明)判定負け。(結果的にこれがラストファイト)

そして、10日後には思いがけない悲劇が起きてしまう。


遠征先だったカリフォルニア州サンフランシスコで体調を崩して病院で診察すると抜歯したままリングに上がったことが原因で敗血症(血液中に細菌が拡散して臓器が機能しなくなる危険な病気)と診断される。そして、前試合から10日後の1925年7月14日、入院していた病院で突然容体が急変して帰らぬ人となった。わずか23歳という若さでの客死であった。



その亡骸(なきがら)は米国から軍艦でフィリピンのマニラ港まで運ばれ遺体が安置された近くの教会前には10万人以上もの民衆が詰めかけ悲しみに暮れたと当時の新聞は報じている。(上記写真)
今世紀世界的スターとなったマニー・パッキャオノニト・ドネアに勝るとも劣らない国民的ヒーローだったことが窺えます。
フィリピン国民に勇気と希望を与え一瞬にして駆け抜けたパンチョ・ビラでした。そして、諦めない拳闘魂の精神は現在のフィリピノボクサーに受け継がれている。

〈パンチョ・ビラ MEMO〉
本名:フランシスコ・ビラルエル・ギュレド
生年月日:1901年8月1日
出身地:フィリピン・イロイロ州イロイロ市。
対戦階級:フライ級・バンタム級(当時は8階級とされる)
身長/リーチ:155cm/160cm
デビュー:1919年1月1日
ラストファイト:1925年7月4日
死没地:1925年7月14日・米国カリフォルニア州サンフランシスコの病院内(享年23歳)
生涯戦績:103戦89勝(22KO)8敗4分2NC(無効試合)

【獲得王座】
OBF(OPBF前身)東洋バンタム級王座(防衛せず返上)
米国フライ級王座(1度防衛)
NBA(WBA前身)世界フライ級王座(3度防衛後に返上)

★ 国際ボクシング名誉の殿堂博物館入り(1993年)
★ 世界ボクシング殿堂入り(1994年)