次々とカーブに差し掛かるのは島の外周をほぼぐるりと1周する3桁の国道。
この島に初めて乗り入れたときはあちこちが工事中で岩や砂の多い悪路だった。
片側に穏やかな海を眺めながら走り続け長細い島の中ほどが知人がいた集落。
当時ですら過疎化が進んでいたが辺りは空き家だらけの模様。
人に出会わない…
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中学に入るころだったか私は車いすを買ってもらった。
といっても自転車に椅子をくっつけたような三輪車タイプ。
駆動は足の代りに手でペダルを回しチェーンで車輪を回す。
webを探し回ったが半世紀以上前のシロモノで写真は無かった。
図は似たものを見つけ記憶を頼りに修正したもの。
だいたいのイメージは掴めるかと思う。

自分だけで行ける距離が増えた。
重いし自転車のようにスピードは出ないが頑張れば数キロは移動できる。
いまどきのシニアカー(電動車いす)の行動範囲だろうか。
でも幼児用三輪車に比べれば雲泥の差だ。(笑)
マイカーを手に入れるまでは私の足だったが
図のように大きすぎて建物の中には入れない。
今のように広いフロアの量販店があるわけでもなく、
多くの病院も入口からして段差が阻む。
松葉杖を持参してでかけたが
杖とコルセットで建物の中を歩ける能力は僅かな距離だった。
階段や段差があればそこでアウト。
まあせいぜい学校への行きかえりと、
家の近所の少し広めの散歩に使うくらいだった。
だいいちせっかく一人で自宅から町なかまで出られる手段を得たのに
中学、高校と学参を買うために本屋に行くほかは
町なかに遊びや買い食いに出たという記憶がない。
ゲームセンターもまだ無かったし
なんとなくそんなことは悪い事、不良の子がすること…という思いが
心のどこかにあったのだろうか?
世間知らずのクソ真面目な子…
というよりも
中学生活の半ばから高校卒業あたりまで
激しい劣等感の中で毎日を過ごしていた。
もしかしたら親の
…母の呪縛の中に自分はいたのかもしれない。
学校に行くにも、病院に行くにも、服を買ってもらいに行くにも、
年に1、2回映画館に行くときも、
常に私は母の背の上だった。
高校生にもなって幼児のように母におんぶされていた。
映画館までは自分で行けても階段を上がって座席に座るまでは母の背の上だ。
隣の町に行くため電車に乗るとき
反対側のホームに行くため渡り廊下の階段を昇降するのも親の背の上だ。
エレベータなどほぼ無かった。
バスの座席に座るのもそう。
私の外出のほとんどで
母がいつも傍らにいた…居てもらわざるを得なかった。
高校のとき一緒に入学した障害者のT男君、
彼も母親が常に付き添っていた。
決して学校には迷惑をおかけしません
二人の母親は入学時に念書を書かされた。
その学校で私たちのような重度障害者を受け入れるのは初めてのケースだったとか。
在学中、母親に背負われているT男君はしばしば見かけたが
私は彼とほとんど話したことがない。(成人後に会うようになった)
クラスが別でお互い自分で近寄ることができなかったためでもあるが
多分私は彼の母親と常にペアのT男君を
自虐と自虐と敵意の思いで見ていたと思う。
自分自身を見せつけられている気がしたのだ…
「屈辱だよね…」
20代で知り合った別の筋ジストロフィーを患っていた知人、
何かのおりにふと漏らした。
確か自分も小さな時から常に母親が傍にいた…そんな話になったときだった。
そうか…
このもやもやとした思いは「屈辱」だったのか。
私だけではなかったのか…
そのとき知った。
こんな鬱々と抱えていた感情は、
高校を出てやっと出会った(三輪ではない)車いすによって
ある程度解放されたかもしれない。