とりあえず隣の小さな町を歩いてみようか…

 小春日和のなか、今年初めてのドライブに出る。

 新しい道やバイパスを通る定番のルートなら早く行けるのだが
 何か用事があって出かけるわけではないから
 それらができる前、運転を始めた頃の昔ながらの道沿いを進む。

 沿道には前と同じ建物もあるが
 新しい店などもできかなり様子が変わっていて新鮮だ。

 ほどなく着くが(ついでにもう少し先まで…)とダラダラと
 懐かしい景色や様変わりした景色に感じ入りながら走るうちに
 4つの市と2つの町を通り過ぎてしまい大きな島への橋の近くまで来る。

 この島は、
 障害を持った年上の知人が暮らしていたところで
 かつては年に何度も訪れていたところ。

 12年前に亡くなって翌年その人を偲ぶ会に行って以来
 次第に母を置いて出られなくなったこともあり行っていない。

 ここまで来たら…

 私の悪い癖だが続けて橋に向けてハンドルを切る。

 なるべく途中で停車しては付近を楽しむといいのだが
 健常者のようにさっと降りてさっと乗るのが難しく
 車いすの積み下ろしが手間取るので疲れたら停車して座席を倒しては休む。

 これでこれまでエコノミークラス症候群にならなかったのが不思議だが
 もともと足は血行が悪いから座りっぱなしに耐性があるのかも。


 免許を取ったのは19歳になったばかりのときだが
 それまでの私の行動範囲は極端に狭かった。

 高校を出るまでは暮らしの中に車いすは無かった。

 車いすというものは病院の中にしか置いてないもの(という認識)だったし、

 あったとしても、

 学校も、町も、家の中も、駅も…生活の場の殆どで
 階段や入口の段差とかバリアだらけで

 車いすで動けるところはほぼ無かった。

 都会はいざ知らず、地方の多くはまだそうで”バリアフリー”という言葉も当時は見聞きした記憶がない。

 高校生くらいまでの私の歩行は

 萎えた腰から下をコルセットでがっちりと固定し
 膝と腰の関節部分をロックして
 松葉づえをつく
 …というより両方の脇の下に当てた杖の上部に体重の殆どを預ける形で

 ロボットのようにぎこちなく歩く。

 ロボットと言っても中国の人型ロボットのように飛んだり跳ねたりするそれではない。

 転倒の恐怖に曝されながらよちよちと歩ける範囲は、
 せいぜい教室内の端から端か
 町の小さな本屋さんなら狭い書棚の間くらいか。

 学校での渡り廊下を通っての教室移動や
 段差を上り下りしていくトイレ棟へのアクセスは
 全て付き添っていた母におんぶしてもらっていた。

 今の家に移るまでは生家を含め何軒か借家暮らしだったが
 畳と縁側という昔ながらの日本家屋だったから
 家の中では畳や床を這って暮らしていた。

 これは私だけでなく多くの足の不自由な人は当時そうだったと思う。

 子どものころは何とも思わなかったが
 大きくなるにつれ健常者の足元で犬か猫のように這って暮らすさまは屈辱でしかなかった。

 その後車いすに乗るようになっても
 座敷での宴会とかそういう場面になると
 自分にネガティブな意識を長らく拭い去ることができなかった…




 子ども時代、縁側の外に出るのは幼児のころに買ってもらった三輪車だった。

 ペダルはもちろんこげないが
 川下りの船の竿のように木の棒で地面を突きながら移動する。
 近所の悪童たちと喧嘩したら棒を取り上げられ途方にくれたことも。

 中学入学前後くらいまでそれに乗っていたが
 萎えた足でもさすがに少しは伸びて地面を引きずるようになり
 ハンドル部分に両足を乗せて乗っていた覚えがある。

 だから幼いころの行動範囲は家から200~300mくらいだろうか。

 小学校への通学や病院行き、母の買い物で4、5km離れた町なかに連れられて行くときは
 母のこぐ自転車の荷台に乗せられて行った。

 もちろん行く先々では母に背負われていた。


 今は肢体不自由児の多くは特別支援学校に通うと思うが
 その前身である養護学校という選択肢は小学校や中学校への進学時に聞いた覚えはない。

 私のいた地域にはまだ無かったようだ。

 中学までは義務教育だが肢体不自由児に対しては

 家族が全面介助するなら連れてきていい
 できなかったら来なくてもいいよ

 というのが当時の教育界のスタンスだったのだろう。

 事実、家が農家で介助の余裕の無かった前述の障害者の知人は
 「就学免除」にされて小中学校に行っていない。
 彼は独学で漢字を覚え、その後作詞家を目指して幾つかの公募に入選していた。


 私が中学校に入るころだったか移動のために強力な助っ人があらわれた。
 おかげで世界をかなり広げることができたのだった。