片側は海、片方はすぐ山。
 少し山側に入り幾つかの峠を上がったり降りたり。

 そんな道を走っているとY字路や十字路に差し掛かる。
 海側にハンドルを切るとこの島のあちこちに点在する漁村の小さな集落のひとつ。

 かつて何度も訪れた村。知人のいた場所…懐かしい。
 そして朽ちかけたような廃屋をあちこちに見るゴーストタウン化した家並み…

 *****

 高校を出て行くところが無かった。

 親や周囲の人が探してくれて
 障害があっても働けるところがあると聞き、
 初めて家から遠く離れた他県で暮らすことになった。

 駅まで行くのも、車両の座席に座るまでも、
 駅からタクシーに乗って目的地に面接に行くのも、

 やはり母の背を借りてだった…

 受け入れてもらったそこは都市にはあった障害者用職業訓練所とか
 今は各地にある福祉作業所などとは違って

 工場だった。
 従業員はほぼ障害者だけの福祉工場。
 創始者がやり手で大手企業と連携し複数の生産部署があった。

 ここで私は始めて自走式(手漕ぎ)車いすに乗るようになった。

 当然、職場も隣接する寮も全て車いすで走り回れるバリアフリーになっている。

 私が居た職場は作っているものは一般の工場と同じ製品だが
 車いすでの作業を前提として設備は手が加えられていた。

 「○○さん? あの人は小児マヒじゃなくてセキソンだよ」

 セキソン??

 初めて耳にした言葉だった。
 いままで自分が出会った障害のある人は、ほとんどがポリオの後遺症とか出産時の事故とか
 つまりは子供のころからずっと障害者として過ごして来た人たちだ…私のように。

 セキソン、つまり脊髄損傷の人たちは、
 ほとんどがある日突然、事故や病気で体が不自由になった人たちだ。

 職場にたくさんいた車いすの人たちは労災病院を経て入所した人が多かったようだ。
 車いす操作方法もそこで訓練を受けたらしく巧みに操る。

 寮で最初に4人部屋で同室になった5歳先輩の青年は
 上半身が筋骨たくましい元「トラック野郎」、事故で脊損になったと聞いた。

 トラック運転手は他にも居たし、柔和な顔の大男の班長はオートバイでの事故。
 大学で体操競技中に負傷したという人や柿の木から落ちたという人もいた。

 そんな車いすの先輩の一人が、作業場に転がっていた角材の上を
 キャスター(前輪)を持ち上げてひょいと事も無げに乗り越える。

 このキャスター上げができ、上げたままウィリー走行ができるようになると
 段差や悪路で格段に効果を発揮する。

 砂利や砂地では小さな前輪は沈み込んだり引っかかったりするが
 前輪を上げたまま進めるとなんとか走行できたり

 10cmくらいの段差とか急坂を
 前につんのめることなく前向きのまま降りられる。



 私は先輩たちに憧れてすぐマネを始め、
 うっかり後ろに倒れてもいいように
 ベッドを後ろにして必死で練習した。

 子どもが一輪車に乗るのと同じ感覚だから、
 そう時間をかけずに身につけることができた。

 職場や寮の近辺なら、
 2階とか大きな段差でもない限り
 健常者と同じか場合によっては早く歩き回れる車いす。

 町の中だって駅とか大きなデパートとかだったら
 今度こそ自由に動き回れるかもしれない。

 だがそこに行くまでどうする?
 バスや列車は当時は車いすでの利用は考えられなかったし(私の認識では)

 高いタクシー代を払って車いすをトランクに積んでもらうくらいか?


 自分で自由に好きなところに行けるようになるには
 車いすの次に車が必要だった。