本日は、みつまめ忘れじのNBA名選手を回顧する後ろ向き企画、「みつまめNBAスーパースター列伝バスケ」。

 

 第129回は、ボブ・マッカドゥー です。

 

 

 1951年ノースカロライナ州グリーンズボロ出身。

 両親とも教職員の家庭に育ち、高校までバスケットボールと陸上に打ち込みました。もっとも得意だったのは走り高跳び。

 

 スポーツばかりやっていたせいか学業はイマイチで、進学はインディアナ州のビンセンズ短大へ。バスケット部で活躍し、ノースカロライナ大に編入しました。母親がツテをたどって猛烈に売り込んだおかげらしい(笑)。

 

 当時のACCトーナメントMVPを置き土産に、アーリーエントリー。母親はせっかく編入したんだから卒業すべきだと反対したのを、このときは注目されてるうちに早くNBAに入ったほうがいい、と父親が説得したとか。

 

 1972年NBAドラフト、1巡目2位でバッファロー・ブレーブス(現:ロサンゼルス・クリッパーズ)が指名。6ft9in(206cm)のサイズながら、チームではセンターを任されます。ゴール下のレイアップもペリメーターからのミドルシュートもなんでもござれ。明るくチームメイトとも仲良くやりたい性格でファンからも好かれます。

 

 

ブレーブス(現クリッパーズ)で得点王3度

 

 

 ルーキーの1972-1973シーズン、平均18.0得点 9.1リバウンドでデビューすると、翌年からスコアリングマシンが開花。30.6得点 34.5得点 31.1得点 と3年連続で得点王のタイトルを獲得しました。NBA史上、現在まで他に7人しかいない偉業です。1975年はシーズンMVPも受賞し、NBAを代表するスターのひとりに。

 

 しかしブレーブスはNFLやNHLのチームと競合したせいで観客動員が苦戦。誘致してきたサンディエゴに移転することになり、その資金捻出のため看板のマッカドゥーをニューヨーク・ニックスに放出しました。

 

 しかしマッカドゥーのスタイルがシュート一辺倒だったことはニックスとフィットせず、以後ボストン、デトロイト、ニュージャージーと移籍を繰り返します。モチベーション低下とコンディション悪化(足首の骨棘)で、30歳の声を聞くやプレーの質は急降下。かつての得点王の面影はなくなっていました。

 

 そこへ1981年シーズン序盤、ロサンゼルス・レイカーズから誘いを受けます。マジック・ジョンソンカリーム・アブドゥル=ジャバーを擁するスター集団に、バックアップのスコアラー役をオファーされたのです。

 

 ヘッドコーチになったパット・ライリーから、短い時間で全力を出してくれ、との期待に応えたマッカドゥーは1982年NBAファイナル制覇に貢献。1985年にも優勝して、ふたつのチャンピオンリングを手にしたのでした。

 

 1985-1986年はフィラデルフィア・76ersでプレー。レジェンドの ‟ドクターJ” ジュリアス・アーヴィングと、若き日のチャールズ・バークレーとチームメイトになり、NBAキャリアを締めくくります。

 

 ここで引退せず、なんとイタリアのLBA、オリンピア・ミラノに入団しました。手術を受けで足首が全快、まだまだやれるとバスケットのモチベーションが落ちなかったようです。

 

 マッカドゥーはミラノを1987年イタリアカップ、FIBAインターコンチネンタルカップ、1988年FIBAヨーロッパチャンピオンズカップ制覇に導き、ユーロピアンMVPを受賞する大活躍。当時のNBAとレベル差はありましたが、元NBAスーパースターは上から目線になることなくチームメイトと仲良くなりファンにも気さく、イタリアで大人気を博したそうです。

 

 居心地が良かったのか、1992年まで7年間、41歳までイタリアでプレーして長い現役生活に幕。奥さんを早く亡くしていたので、ミラノで再婚もしています。合わせて4男2女の父親です。

 

 

マイアミ・ヒート在籍29年

 

 

 1995年、レイカーズ時代の恩師パット・ライリーがマイアミ・ヒートのヘッドコーチに就任すると、マッカドゥーにアシスタントコーチのオファーが来ます。快諾するとミラノからフロリダに居を移し、この仕事はなんと19年間続きました。2006年、2012年、2013年のヒートNBA優勝を経験し、チャンピオンリングが3つ加わる果報。

 

 アシスタントコーチを退任すると、なおコミュニティ・リエゾンの肩書きをもらい、ヒートでアドバイザーのような役職をこなしています。現在72歳、NBA大使として海外でバスケットボールの普及事業にも同行し、忙しい日々です。