本日は、みつまめ忘れじのNBA名選手を回顧する後ろ向き企画、「みつまめNBAスーパースター列伝バスケ」。

 

 第101回は、前回に引き続きマジック・ジョンソン伝です。

 

 

 1980年NBAファイナル-

 ロサンゼルス・レイカーズvsフィラデルフィア・76ersは2勝2敗の互角で迎えた第5戦、試合途中でレイカーズ大黒柱のカリーム・アブドゥル=ジャバーが左足首をひどく捻挫するアクシデントに見舞われます。

 

 痛みに耐えて40得点を挙げ勝利、チームを王手に導いたカリームは、その代償で第6戦には帯同すら出来ませんでした。

 その大きすぎる穴を埋めたのは20歳のルーキー、マジック。カリームの代わりにセンターポジションに入ると、その試合で42得点15リバウンド7アシストの大活躍でレイカーズにチャンピオントロフィーをもたらし、ファイナルMVPに選出されたのです。

 

 

1980年、ルーキーでNBAファイナルMVP

 

 

 NBAにメガスター誕生と衆目を増した2年目、マジックはヒザの靭帯損傷でシーズンの半分を欠場。その間にポイントガードを務めたのはマジックの親友ノーム・ニクソンでした。しかしマジックが復帰するやシューティングガードに廻されたニクソンはプレスを通じて不満をぶちまけ、ついでにチーム内からマジックへのジェラシーも噴出。すっかり内紛を起こしてしまいます。

 

 壊れたチームはプレーオフで一回戦敗退。NBAファイナルはラリー・バードのボストン・セルティックスが制したのでした。デビュー2年でマジックとバードは互いに頂点に立ったかたち。

 

 負の連鎖は続き、翌シーズンに入る前、レイカーズのオーナー、ジェリー・バスはマジックを移籍させないため、25年2500万ドル(当時のレートで62億5000万円)の終身契約をオファーします。単年では2億5000万円で、これが破格だったのですから、当時のNBAの規模が現在ほどでなかったことがわかりましょう。ちなみに日本プロ野球で落合博満が初の1億円越えしたのは1986年12月のこと。

 

 これに他ならぬカリームが激怒。公然とマジックを非難するに及び、チームは慌ててカリームに単年150万ドル(3億7000万円)を提示しますが、当然ながらカネの揉め事はファンの反感を買います。

 

 コート上でも、ヘッドコーチのポール・ウエストヘッドはカリームをシュートの中心に据えるセットオフェンス戦術だったため、ランニングゲームを得意とするマジックが活かされず、マジック本人もフラストレーションを溜めることになります。

 

 プレスの前でも不満を口にするようになったマジックを見て、ジェリー・バスはウエストヘッド解任を決定。レイカーズOBで、当時解説者のパット・ライリーを新ヘッドコーチに迎えました。ライリーこそハイスパートオフェンス、ショータイム・レイカーズの生みの親になるのです。

 

 当初、マジックのワガママがコーチの首をすげかえた、と受け取ったプレスはマジックをバッシング。ファンも会場でブーイングを浴びせるようになり、陽気なマジックも消沈。キャリアを通じてもっとも試練の日々を過ごします。

 

 しかしライリーのハイパーオフェンスがハマり、チームは実力を発揮。リングを求めて移籍してきた元スターのボブ・マッカドゥ―、クラーク・ケントそっくりで親しみやすいルーキーのカート・ランビスと陣容も充実。57勝25敗で突入したプレーオフでは無敗でファイナルまで勝ち上がると、ファイナルの相手はふたたびシクサーズ。

 

 このシリーズではマジックが大躍動して4勝2敗で勝利。2度目のチャンピオンリングとファイナルMVPを獲得します。それ以上にマジックを安堵させたのはLAフォーラムの大歓声でした。チームプレーと結果で悪評を吹き飛ばすと、カリームやニクソンとも和解でき、苦難が報われたのです。

 

 

シクサーズとは4年間で3度対決

 

 

 1983年は当時最高のセンターのひとり、モーゼス・マローンを補強したシクサーズが65勝17敗と大躍進。ファイナルではレイカーズを圧倒して33歳のドクターJに待望のNBA初優勝をもたらします。

 

 敗れたとはいえこの年のレイカーズはシーズン前にジェームズ・ウォージーを、シーズン後にバイロン・スコットをドラフトで獲得。ノーム・ニクソンは放出されてしまいますが、ここにショータイム・レイカーズのメンバーは勢揃いしたのでした。

 

 そして翌1984年、ついにNBAファン待望のレイカーズvsセルティックス...マジックvsバードが実現します。

 

 続きは次回。マジック編、何回かかるだろ。。。でも端折りたくないんでじっくりいきます( ..)φ