本日は、みつまめ忘れじのNBA名選手を回顧する後ろ向き企画 「みつまめNBAスーパースター列伝バスケ」 です。

 

 第28回目は、ジュリアス・アーヴィング

 

 

 愛称の “ドクターJ” の方が通りが良いでしょう。

 もっとわかりやすく紹介すると、「マイケル・ジョーダンやオバマ大統領が憧れた男」。

 

 すなわち、エラく昔の選手です。なので自分も現役時代を観たことはありません。

 しかし、1987年の引退以降もずっと選手・ファンの尊敬を集め続け、NBAファイナルやオールスターなど、リーグのビッグイベントに必ず招かれるところはまさにレジェンド中のレジェンド。

 

 実はアメリカに、プロバスケットボールのリーグがふたつあった時期がありました。NBAの創立は1949年ですが、1967年から1976年の足かけ10年、ABA(アメリカン・バスケットボール・アソシエーション)というリーグが存在したのです。

 

 ドクターJは1950年ニューヨーク出身。

 マサチューセッツ大からバージニア・スクワイアーズと契約して、そのABAでプロデビューを果たします。

 

 彼を大スターにしたのは、そのワンハンド・スラムダンク。

 当時、大学バスケット界はダンクを邪道として禁止していたのですが、プロになりそのジャンプ力を如何なく発揮したドクターJのプレーは、観客を魅了して已まなかったのです。

 

 とはいえ、当時のプロバスケットリーグはNBA、ABAを問わず経営難に喘ぎます。まだそれほど人気のあるスポーツでなかったうえ、ロッカールームでの薬物汚染など、醜聞と偏見にまみれていたからでした。

 

 1973年、ニューヨーク・ネッツに移籍したドクターJは、2度のABA優勝、3度のMVP、3度の得点王とリーグ最大のスターとなりますが、ABA自体が1976年に消滅、NBAに吸収されます。

 

 加盟金は当時320万ドルの巨額。

 ネッツはそれを支払うため、ドクターJをフィラデルフィア・76ersに放出せざるを得ませんでした。加盟できたのは9チーム中4つ。

 

 口さがないメディアは、「NBAがABAから欲しかったのはドクターJただひとり」 とその合併劇を評したほど、彼の人気は圧倒的だったのです。

 

 

“スペクタクル・ダンクアーティスト”

 

 

 NBAでも76ersに在籍11年。1981年にMVP、1983年にはチャンピオンリングを手にするなど栄光に彩られ、ラリー・バードやマジック・ジョンソンなど後輩メガスターとの闘いで、NBA人気爆発の立役者となりました。

 

 1987年、37歳で16年のプロキャリアに終止符。

 女性関係での醜聞はいくつかあれど、暴力や薬物とは無縁で人格は温厚誠実。メディアやファンへの応対は丁寧を極めました。

 

 フリースローレーンからのロングジャンプ・ワンハンドスラムや、空中でボールを持ち変えるローリング・リバースレイアップ、片手で円を描きながらフープにダンクするウインドミルなど、彼が熱狂させた数々のムーブ同様に、その人間性をも含め、NBA選手のお手本として尊敬されているのです。

 

 

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