*2月18日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコ、今回は近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは天保の改革周辺。

 

 本日は、水野忠邦青雲の要路 のおはなしです。

 

 

 

 

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 あんみつウシシ 「しらたま先生、天保の改革を断行したリーダーは老中首座・水野越前守忠邦(1794~1851)。肥前唐津藩6万石の藩主にして、水野氏は譜代大名ですから入閣の資格はあったにせよ、かねてから老中になって幕政を主導したいとの意欲まんまんだったという人です」

 

 しらたまオバケ 「忠邦の祖水野忠元は、徳川家康生母お大の甥だったから、家康と従兄弟という近臣だった。十一代将軍家斉の最側近・老中水野忠成(ただあきら)はお大の兄・水野信元の後裔なので、三河譜代のなかでも名門と言えるだろう。だがネックは、肥前唐津藩には長崎出島警固の任があって、藩主が幕閣入りする慣例がなかったことだ」

 

 あんみつうーん 「そこで、忠邦自身 ‟青雲の要路” と言い表す老中ゲットへの猛就活が始まるわけですね。藩主になったのは19歳だった文化九年(1812)八月。さっそく藩政改革を号令すると、倹約財政、勤務精励を命じています。とはいえメインは幕閣お歴々の覚えをめでたくすること、つまり贈賄!です」

 

 しらたまオバケ 「ちょうど水野忠成が老中になり、親類でもあれば無類の収賄好きであったのが幸い?した。忠邦は寺社奉行を拝命すると、遠州浜松5万石に転封となった。もちろん遠い唐津を離れて閣僚になる下準備だ。実収20万石とも言われる豊土からの国替えに藩士は仰天。家老の二本松大炊(おおい)などは強諫したものの、かえって忠邦の不興を買い屠腹させられてしまった」

 

 あんみつガーン 「本 老中ゲットへの執念というか、家臣の藩士のことなど考えてないというか。浜松に移ってからも国元に毎年7千両(≒7億円)もの送金を頼んでいます。家老になった水野小河三郎(おがさぶろう)は藩の財政難を訴えますが、忠邦は親書をもって具体的な使途を示して哀願しました。老中水野忠成夫妻を屋敷に呼んでもてなすのに一回100両かかるんだとか」

 

 

水野忠邦像(東京都立大所蔵)

 

 

 しらたまオバケ 「老中からも忠邦に饗応や進物があり、その都度返礼するのに20~30両。また老中取次である土方縫殿介(ぬいのすけ)ら用人への付け届けとかね(→土方縫殿介逸話)。あまりに権力側ばかり見てるんで、江戸商人への支払いが滞納気味で、忠邦の家来が買い物に行くと店を閉められる始末だったという」

 

 あんみつゲラゲラ 「まるで現在の政務活動費のようですね。政治にカネがかかるって、実態はそんなことでしょうし。忠邦はきちんと使い道をオープンにしてるだけマシかも。その甲斐あって、寺社奉行を8年務めたあと大坂城代、京都所司代を経て文政十一年(1828)十月、世子家慶付の西の丸老中を7年。天保五年(1834)二月、水野忠成の死去により41歳でついに本丸老中職ゲットです」

 

 しらたまオバケ 「せっせと贈賄ばかりしていたわけではなく、能吏ぶりも発揮している。大坂では畿内の農村強訴を公平に審理しているし、京都では朝廷の費用を増額したので、ときの光格上皇(1771~1840)、仁孝天皇(1800~1846)からお褒め、感謝の言葉をいただいている。また和歌や雅楽など貴族芸能を練習し、畿内寺社の文化財保護をやって公家や僧侶神主を感心させた」

 

 あんみつアセアセ 「老中になれたのは水野忠成に取り入ったからだけじゃなく、たしかな手腕もあってこそですね。将軍家斉や寵妾のお美代にも認められるなど、全方位のバランス感覚もあります。天保十年(1839)十二月に老中首座を拝命したのは家斉自身の抜擢でした。決裁文書がヒザの高さもあると言われるとんでもない忙しさですけど、毎日すごい速さで処理したとか」

 

 しらたまオバケ 「忠邦の御納戸頭を務めた儒官の羽倉簡堂によると、三人の訴えを同時に聴き分けたという聖徳太子ばりの話もある。それでも自身思いどおりの政治を行うには至らない。西の丸に隠居した家斉が大御所として健在なうちは、その側近たちが実権を離さないからだ」

 

 あんみつもぐもぐ 「若年寄・林肥後守忠英(ただふさ)、御側御用取次・水野美濃守忠篤、小納戸頭取・美濃部筑前守茂育(もちなる)の ‟三侫人” ですね。彼らが幅を利かせることは将軍家慶にとっても目の上のコブでした。天保十二年(1841)閏正月、家斉が69歳で薨去したことは、幕府としては悲嘆ながら、待望の機会到来」

 

 しらたまオバケ 「家慶もすでに49歳。四月にさっそく三侫人の罷免に踏み切り、大奥女中を含む家斉に近しい閣僚数十人が一掃された。五月、将軍家慶から幕閣が招集され、享保・寛政に乗っ取った改革断行の訓示を受けた。もちろん忠邦による演出だ。特筆されるのは、‟これから改革をやるぞ” と宣言したことだね」

 

 あんみつにやり 「忠邦内閣の閣僚は、老中・土井利位(としつら)、堀田正篤(まさひろ)、真田幸貫(ゆきつら)。土井って雪の結晶を顕微鏡で観察した雪の殿様ですね。堀田はのちに正睦(まさよし)と改名して幕末の難局に当たります。真田は松平定信の庶子から松代藩10万石に婿入りし、外様格ながら大抜擢されました」

 

 しらたまオバケ 「若年寄にはやはり外様格から堀大和守親寚(ちかしげ)に譜代の堀田摂津守正衡(まさひら)、大岡主膳忠固(ただかた)、遠藤但馬守胤統(たねのり)と、俊英中の俊英が新任された。おいおい触れていこう。南町奉行には矢部駿河守定謙(さだのり)、そして北町奉行が遠山金四郎、当時49歳だ」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 幕政改革の意気に燃え、‟ワイロ政治を改めるためにワイロを贈る” 非情手段を厭わなかった水野忠邦。その執念はついに実り、老中首座のイスに付きました。

 

 次回、天保の妖怪鳥居耀蔵 のおはなしです。

 

 

 それではごきげんようオバケニコ