*5月22日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科のぜんざい教授ねこへびと、継子の院生・あんみつ君ニコの歴史トーク、今回のテーマは戦国時代の中国地方。

 

 本日は、摂津木津川口海戦 のおはなしです。

 

 

 

 

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 あんみつにやり 「先生、山陰で尼子再興軍を駆逐した毛利氏は、天正二年(1574)から備後で浦上宗景との決着戦に入りました。当主の毛利輝元はまだ22歳ですが、叔父の吉川元春は45歳、小早川隆景は42歳の壮年で、この “毛利両川” が補佐する三頭体制でいっそうの領国拡大を図ります」

 

 ぜんざいねこへび 「備後では、浦上宗景と重臣の宇喜多直家の関係が破綻していた。浦上は織田信長に接近して国主の地位を保とうとしたため、宇喜多直家は毛利への帰順を選択した。両者の抗争は宇喜多が備前天神山城を占領して勝利し、浦上は播磨に逃亡、信長の保護を受ける」

 

 あんみつえー? 「宇喜多が毛利に接近したことは、備中の国人・三村元親の反乱を招きました。元親の父・三村家親はかつて毛利のために浦上と戦い、宇喜多が仕向けた遠藤喜三郎に暗殺されていたからです。そのカタキの帰順を毛利が受け入れるなんて冗談じゃない」

 

 ぜんざいねこへび 「家親は美作穂村の興善寺に滞在中、縁の下に潜んでいた遠藤に狙撃されたという。戦国時代、謀殺は多いがこのようなヒットマンによる闇討ちは非常に珍しい。宇喜多は女性を使って政敵に毒盛りしたこともあるし、このような手段を選ばない残忍な人物であったのはたしかだ」

 

 あんみつぼけー 「三村の反乱に毛利輝元は激怒し、小早川とともに自ら備中に出陣、徹底的な三村一族殲滅に出ます。降兵も許さないという残忍な措置は、年若い輝元が侮られたと受け取ったからでしょうか。残酷さは元就譲り。恐怖支配ではけっして心服は得られないと思いますが...」

 

 ぜんざいねこへび 「天正三年(1575)五月に備中は平定。元就の四男元清が穂井田(ほいだ)の猿掛城に入り、穂井田元清を名乗って毛利直轄となる。これをみて一時期離反していた能島水軍の村上武吉が毛利方に復帰。毛利の領国は安芸・周防・長門・石見・出雲・伯耆・因幡・隠岐・備後・備中・備前に及んだ。今でいう兵庫県から西はすべて毛利王国と言える」

 

 あんみつ真顔 「ここまで強大化しては、中央政界を掌握する織田信長との対決はいずれ避けられません。きっかけは天正四年(1576)二月、信長に追放された足利幕府十五代将軍・足利義昭が備後鞆の浦(福山市)、小松寺に亡命してきたことでした」

 

 ぜんざいねこへび 「毛利は当初、信長との敵対関係を避け、外交僧の安国寺恵瓊を使者に和睦斡旋で穏便に済まそうとするも、義昭が強引に毛利領に押し掛けてきた、ということだ。信長は将軍追放の汚名を畏れたから義昭を呼び戻したかったんだが、義昭が断固拒否。毛利にしたら受け入れては信長を刺激するし、断っては領国内の豪族に弱腰と侮られるジレンマだ」

 

 あんみつおーっ! 「輝元としては、義昭が勝手に鞆の浦に暮らしてるんであって、当家としては “対手(あいて)とせず” の態度でいきたかったのかも知れませんね。ところが義昭が小松寺でせっせと諸大名に手紙を書いて、対信長の檄を飛ばすという」

 

 ぜんざいねこへび 「これに応じたのは上杉謙信や武田勝頼、石山(大坂)本願寺などだ(→関連記事・第二次信長包囲網)。毛利輝元も味方だと勝手に書かれていたからね(笑)。義昭追放後、越前朝倉氏、近江浅井氏を滅ぼした信長にとって、主敵は大坂本願寺であり、天正四年(1576)四月から攻撃を再開、渡辺津(大阪湾)を海上封鎖して兵糧攻めを始めた」

 

 あんみつにやり 「これに対し、本願寺は毛利氏に救援を依頼したんですね。賽は投げられたの心境か、糧食搬送の後方支援業務なら決定的な破局に至らないという楽観か、水軍を動員して兵糧米を輸送しました。川内警固(けご)衆、小早川水軍、村上水軍、宇喜多水軍の300艘、兵糧船600艘の大船団です」

 

 ぜんざいねこへび 「七月、淡路岩屋を出航した艦隊は、和泉貝塚で紀州雑賀(さいか)衆と合流した。“雑賀の孫市” として有名な、鈴木孫一重秀を頭目とする傭兵集団だ。ここまでの陣容を揃えたのは、あきらかに示威でもってスムーズに搬送しようとしたと思われる。しかし織田方の海上警固、真鍋七五三兵衛(しめのひょうえ)らが200艘の水軍で敢然と挑んできたのは計算外だったろう」

 

 あんみつもぐもぐ 「大部隊で威風堂々と進軍すれば、相手がビビッて戦争にならないなんて危うい考えですよね。鳥羽伏見の幕府軍も、西南戦争の西郷も意に反して会戦になってしまったんですから。両水軍は堺津を上った木津川口で激突。能島水軍の村上元吉が総指揮を執り、<ほうろく火矢> なる筒形陶器に火薬を詰めた爆弾を使って織田水軍の船を殲滅しました」

 

 ぜんざいねこへび 「陰鬱なことだが、戦争においては効果的な兵器があればもったいぶらずにすぐ使う、という歴史的実証例とも言える。欧州大戦での毒ガスしかり、第二次大戦の日本の細菌兵器しかり、ナチスのV2ロケットしかり、アメリカの原爆しかりだ。使用をちらつかせて脅迫したりすれば、先制攻撃のリスクを呼ぶだけだからね。さて、海戦の隙に鈴木孫一の雑賀衆は大量の食糧を本願寺に運び込んだ。寺内に住む1万5千人の門徒2年分に及ぶ兵糧だ。いかに信長にとって打撃かわかるだろう」

 

 あんみつアセアセ 「毛利軍の勝報はすぐ上杉謙信らにもたらされ、信長包囲網は勢い付きます。一方の信長は食糧搬送に活躍した雑賀衆を憎み、個別撃破に出ようと大軍を動員して紀州に出陣しますが、天正五年(1577)二月、七月の2度に及ぶ雑賀合戦で、なんと信長は勝つことが出来ませんでした。雑賀おそるべし」

 

 ぜんざいねこへび 「その理由に、雑賀が毛利に応援を頼んだことがある。木津川での貸しがあるからね。もはや否応なく織田との手切れが決定的となり、毛利輝元は雑賀の後方援護のため出陣、羽柴筑前守秀吉が守る播磨に侵出する。秀吉の麾下には、尼子勝久を奉じる山中鹿之介も馳せ参じていた」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 西国11ヵ国の王者となり、織田領と境を接した毛利氏は、出来るなら避けたかったと思われる織田信長との対決に投じます。

 

 次回、激突 毛利対織田 のおはなし。

 

 

 それではごきげんようねこへびニコ