33.文先生は、原罪と堕落性本性が全く違うものだとは言ってない!? | 御言 missing link

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 先回は、
「原罪には実体と言えるようなものはないのではないか」
「今の時代はすでに原罪という言葉に決着がつき、その概念が終了した時代となっているのではないか」
 ということを申し上げました。
 これはあくまでも私たちに関係する問題として述べたことです。ですから、アダムとエバが神様の戒めに背いて堕落したということに対し、そういう事実はなかった、として否定しようというものではありません。アダムとエバが神様の戒めに背いて犯した霊的堕落と肉的堕落を「原罪」と定義するならば、「原罪はある」ということになります。問題はそのアダムとエバが犯した罪がなぜ、そしていかにして、その後の人類全体が共有してもつものとなるのかということです。
 食口であれば、何の疑問も感じない当たり前の話に、何のケチをつけようとしているのかと思う人もいると思います。ですが、一度じっくりと考えてみて頂けたらと思います。そもそも、「遺伝」とは生物学的用語です。それに対し、「罪」とは、もともと宗教用語であり、さらに法律が整備された時代になってからは、法律的用語としても扱われてきました。遺伝という生物学的な概念が、罪という宗教的、あるいは法律的な概念と、厳密な論理性を損なわずに混合することが果たして可能なのでしょうか。生物、宗教、法律という3つの分野にあることが都合よく当てはめられてはいても、実は一つの分野で説明することができない内容を、他の分野の用語に置き換えて説明しているだけなのではないでしょうか。それでは「例え」の域を出ていないと言えますし、そもそもそういう表現をせざるをえないとしたら、そこにはすでに論理的な無理・矛盾が含まれているとも言えそうです。
 また、原理講論の「不倫なる血縁関係」という言葉にも無理があると言えます。一般的には、「性関係」=「血縁関係」ではありません。アダムとエバの堕落を原罪と言うならば、それは「性関係」と言う方が適切ですし、アダムとエバに子女が生まれ、家族・親族が増え、その内容に「血縁関係」という言葉を用いる方が適切です。原理講論は、「不倫なる血縁関係」という表現を用いることで、その後に控える「原罪の遺伝」という概念を、前もって取り込むことに成功していると言えそうです。これは決して褒められるべき表現とは言えません。
 ですから、「原罪」を考える際、アダムとエバが犯した罪が遺伝するという考え方がはたして正しいのかということを検討に加える必要があると思います。このことは、アダムとエバが罪を犯したため、サタンの讒訴圏が全人類におよぶようになった、という考えも同様です。親が罪を犯した場合、その償いや罰が、その子や子孫に及ぶことはありますが、だからと言って、その子供や子孫が、生まれつきの罪人(ざいにん)とみなされるわけではありません。受け継ぐのは、あくまでも償いや罰であって、罪ではありません。アダムとエバが犯した罪との関係で考えた場合、サタンの讒訴が私たち全人類に及ぶということと、私たちが生まれつき罪人かどうかということは、別の問題です。このことは、原罪だけでなく、遺伝的罪、連帯罪についても同様で、改めて罪とは何なのかということから再考する余地が残されていると言えるでしょう。
 このような議論、つまり、アダムとエバが犯した罪が、いかにして原罪として人類全体に及ぶことになるのか、また、なにゆえ、全人類が罪人とみなされることになるのかという議論は、キリスト教においては、すでに成されてきた内容です。ただ、ここで簡単に表現できるものではありません。そのいくつかの考えに私自身も触れてみたのですが、いまだ納得のいく考えには出会っていません。そのため本ブログ上で反論を提示しながら紹介することは、大変な作業となり、私の力の及ばないところですので、ご容赦頂きたいと思います。関心のある方は、今後検討項目に加えて頂ければと思います。

 さて、前置きが長くなりましたが、今回は、原罪と堕落性本性との関係について考えてみたいと思います。ただし、ここで述べる「原罪」とは、上で述べたように、私たちに関する問題としてではなく、「アダムとエバが神様の戒めに背いて堕落した」ということを指しているとご理解ください。そこをご理解いただけないと、今回の内容が先回の内容と矛盾したもののように感じられるかもしれませんので。
 では、まず、次の御言をお読みください。

「サタンは、堕落した天使長であり、神と人間に対する忠実な僕としての立場を離れて、神に挑戦し、神と競争したのです。彼の動機は利己心でありました。彼の利己心から悪と罪の源が出てきたのです。 (み旨と世界 P266 人間に対する神の希望)

 ここで、文先生は、
「彼の利己心から悪と罪の源が出てきたのです」
 と言っておられます。
 この「罪の源」という言葉は「罪の根」や「原罪」とどう違うのでしょうか。一般的には、「源」、「根」、「原」は、ほぼ同義として使われていることが多いと思います。もしそうであれば
“「利己心」から「罪の源」つまり「原罪」が生じた”
 となります。もちろん、これは、原理講論が言っていることと差異があります。
 さらに、次の御言をご確認ください。

「堕落は、神様を中心としてアダムとエバが一つにならなければならないのに、神様の僕である天使長と一つになったことをいいます。神様の血統を受け継がなければならない人間が僕の血を受け継いだことです。ですから堕落した人間がいくら神様を「父」と呼んでも実感がわかないのです。これは神様であろうと何であろうと関係なく、すべてを自己中心にだけ連結させて考える堕落性本性が遺伝したからです。 (祝福家庭と理想天国Ⅰ P439 創造本然の男女の愛)

 私達は、「堕落した人間がいくら神様を『父』と呼んでも実感がわかない」ということの理由は、「原罪」ゆえにサタンが相対できる条件があり、神様のみと相対することができないようになってしまったから、と原理で学んできたと思います。
 特に、上の御言の中にある
「神様の血統を受け継がなければならない人間が僕の血を受け継いだ」
 という状態を、「原罪をもっている」と理解してきたのではないでしょうか。
 そうであれば、
「堕落した人間がいくら神様を『父』と呼んでも実感がわかない」
 ということの理由は、
「原罪を持っているからです」
 となってよいと思うのですが、上の御言では、
「すべてを自己中心にだけ連結させて考える堕落性本性が遺伝したからです」
 となっています。期待した展開と少し違うというところに、何かを気付かせようとする文先生の意図があるようにも思えます。
 以前、本体論修練会に参加したとき、講師がある分派の考え方を否定していました。それは、
「彼らは、堕落性本性は原罪と同じだと言っている。とんでもないことだ。堕落性本性と原罪とは全く違うものだ。」
 というものでした。
 私も以前は、この「原罪と堕落性本性」の違いがはっきりわかっていない者は、罪も、許しも、救いも、メシアも分かるはずがないと思っていました。ですが、最近は、少し慎重になっています。
 御言の中には、読み方によっては、上のように
 “利己心や自己中心から罪の根つまり原罪が生じた”
 ととることができる内容があるからです。言い換えれば、原罪が根なのではなく、自己中心が根だと理解すべき御言があるということです。
 そして、私の場合、文先生の御言と原理講論の説明に差異がある場合、どちらを優先すべきかといえば、当然、文先生の御言です。その理由は、今までの記事を読んでくださった方には今さら説明する必要はないと思います。ただ一言だけ、念のため、その理由を申し上げておけば、文先生の思想を研究する際、文先生の御言は「1次資料」であり、原理講論は「2次資料」だということです。一般的な学者もそう見るはずですが、食口は、どうも逆にとらえている人が多いようです。そこは家庭連合(統一教会)の不可思議なところの一つでもありますが‥‥‥。
 ですから、上の考え方、つまり 
“利己心や自己中心から罪の源が生じた”
 ということに対して、原理講論の言葉や定義をもって否定しようとするのではなく、文先生の御言をもとに精査する必要性が残っていると思います。
 文先生は、
「彼の利己心から悪と罪の源が出てきたのです」
 と言っておられます。
 罪の源ゆえに、あるいは罪の源の発生と同時に、利己心をはじめとする堕落性が生じたのではなく、利己心から罪の源が出てきたと言っておられるわけです。利己心というものをより本質においておられるということを認識した上で検討する必要があると思います。
 ところで、原理講論では、堕落性本性を
「天使が神に反逆して、エバと血縁関係を結んだとき、偶発的に生じたすべての性稟を、エバはそのまま継承したのであり、こうして天使長の立場におかれるようになったエバと、再び血縁関係を結んだアダムも、またこの性稟を受け継ぐようになった。そして、この性稟が、堕落人間のすべての堕落性を誘発する根本的な性稟となってしまったのである。これを堕落性本性という。」(『原理講論』 P122)
 と説明しています。
「血縁関係を結んだとき、偶発的に生じたすべての性稟」という表現から、多くの食口は、血縁関係があればこそ堕落性が生じたと理解していると思います。ですが、それは誤解だと言えます。
「不倫なる血縁関係」は行為です。そして、「堕落性本性」はもとをたどれば、その行為に至った動機です。その行為の結果、あるいは行為と同時に生じた性質ではありません。そう見るのがより自然です。
 原理講論では、霊的堕落の動機を次のように説明しています。

「このような立場で愛の減少感を感じるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。」
 
 この説明は、すでに、堕落性本性の2、3番目;「自己の位置を離れる」、「主管性の転倒」という内容と完全に重なっています。つまり、動機と堕落性本性が重なっているということです。
「これがすなわち、霊的堕落の動機であった」
というように「動機」という言葉がしっかりと使われています。
 また、原理講論の「堕落性本性」の説明のところには、

「このような堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は、天使長がアダムに対する嫉妬心を抱いたところにあった。それでは、善の目的のために創造された天使長からいかにしてそのような愛に対する嫉妬心が生ずるようになったのであろうか。」(原理講論 P122)

 とあります。
「堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は、天使長がアダムに対する嫉妬心を抱いたところにあった」
 と言っています。
 やはり、はっきりと「動機」という言葉が使われています。
 そして、「嫉妬心」と言えば、修練会等では、
「堕落性本性の1番目;『神と同じ立場に立てない』 例、妬み、嫉妬、‥‥‥」
 と説明されてきたのではないでしょうか。ここも、霊的堕落の動機と堕落性本性が重なっています。
 また、4つ目の犯罪行為の繁殖についても、これは肉的堕落の動機と重なっていると言えます。
 改めて確認します。原罪つまりアダムとエバが犯した霊・肉の堕落と堕落性本性は、行為とその動機の関係です。このこと自体は、改めて指摘されるまでもなく当たり前だと思う方が多いはずです。上で述べたように原理講論にそう書いてあるのですから。ということは、この二つは全く別なものだとは言えないはずです。そして、「動機」が、犯罪行為の後も改心されないまま堕落性本性という性質として、人間に受け継がれてきたということです。
 行為と動機を全く別のものだとするところから生じる問題は大きいのではないでしょうか。人間の救済を目的とする宗教であればなおさらです。
 一般の刑事訴訟でも、犯罪行為と動機は切り離せないものとして刑が検討され、判決が下されます。
 実は、私は、本心とは別に、本音では次のように叫びたいんです。

「祝福によって原罪は清算されているけれど、見ての通り、私の中の堕落性本性はそう簡単にはなくならないぞ! だって、まったく別のものなんでしょ! だから当分は今のままでもしょうがないってことにしておこう。根(原罪)がなければそのうち自然と消えるはずだし‥‥‥。」

 これを是とする理論があるとしたら、それは、結果的に、堕落性を擁護するための理論となり、原罪を犯すに至った動機を今後も改心させずに残すものとなるかもしれません。

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