32.「善悪を知る木の果を食べたからではなく、心情問題で堕落した」 | 御言 missing link

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 以前、私が参加した原理本体論修練会では、原罪の清算について、講師が次のように説明していました。

「神様と文先生とサタンの三者協議により、
『聖酒を飲んだものは原罪が清算され、サタンの血統から神様の血統に移る』
 という取り決めが成された。それを可能にしたのは、真のご父母様の勝利圏である。」

 血統的つながりとは、話し合い(協議)によって、
「いままでの血統は清算されました。きょうからは新しくこちらの血統に変わります」
 と言えるようなものなのでしょうか? 
 血統が話し合い(協議)を超えることはあっても、協議が血統を超えることが可能なのでしょうか?
「それを可能にしたから偉大なんだ」
 とも言えるでしょう。
 ですが、いくら文先生が多大な蕩減条件を払ったとはいっても、三者協議によって、血統の切り替えが可能になったと信じるのは、どこか力技のような印象が残ります。戸籍を移しただけでは、あくまでも養子は養子だからです。
「原罪」の根本的な意味について検討すべき余地が残っているのではないでしょうか。そのことは「血統」についても同様です。「サタンの血統」と言っても、サタンとされるルーシェルでさえ、もともとは神様の被造物だったのですから。たとえ親兄弟の縁を切ったとしても、血統そのものが変わるわけではありません。
 ですから、「信仰的」にというよりも、客観的に、これまで統一教会が持ってきた救済観が今後も世界のどこに行っても通用するだけの普遍的な論理性を有しているかどうかという観点に立って考えてみる必要があると思います。そのような整備の仕事が残っていると思います。
 もし、逆に、上で紹介した「三者協議」が本当に有効なのだとしたら、「原罪」や「血統」の方に、もともと「実体」といえるようなものがなかったからなのかもしれません。そうであれば、あとは手続き上の問題で、人間をその概念から解放することが可能となると言えます。
 キリスト教が、何かつかみ切れない人間の不義なる性質の出発点を「原罪」という言葉にまとめ、その結果、その信徒を信仰に縛り付けることに成功したとしたら‥‥‥。
 その解決は、2000年のキリスト教の蕩減条件を払った上で、そのキリスト教人口に匹敵する数的な祝福を勝利することをもって、「全人類に原罪なし」とすることのできる可能性があったのかもしれません。
 そのために、2001年までの数年間、激しい祝福伝道の摂理があり、最後は、「聖酒キャンディーでいい」という内容があったのではないかと考えることもできます。
 だとしたら、この解決した原罪という言葉にこだわってはいけないのかもしれません。

「はじめに祝福家庭はなぜ尊いのかと尋ねましたが、なぜだか分かりましたか? 原罪ではありません。原罪は堕落以後のものです。堕落以前の神様との関係があるのであって、原罪とは関係ありません。そう言う人は、原理を知らないからであり、原理が分かれば、祝福家庭は神様と直接の関係なのです。」 (ファミリー93/9 30p 日本人特別修練会における御言 1993年 4月16日 ベルベディア)

「本来、原罪には直接解決すべき実体はなかった。キリスト教徒が信じている『原罪観』に、文先生は、再臨主として歴史的決着をつけた」
 と考えるというのは、問答無用のとんでもないことでしょうか。

「罪がどこから現れたか。聖書に書いてあるのは、善悪を知る木の果を食べたから生じたと。そういう問題じゃない。それは心情問題が問題となった。心情問題で堕落した。この血とこの身が骨が出発点になっておる。」 (御言葉集2 P188 我々は何も言えません)

 上の御言の
「聖書に書いてあるのは、善悪を知る木の果を食べたから生じたと。そういう問題じゃない。」
 の部分ですが、「そういう問題じゃない」
 の後に来るべき言葉は、原理講論的には
「不倫なる血縁関係で堕落した」
 のはずです。ところが、そこが、この御言では
「それは心情問題が問題となった。心情問題で堕落した。」
 となっています。堕落に対する原理講論的な説明をしておれれるわけではないようです。
 やはり「堕落論」について、その意味するところの本質を、改めて考えてみる必要がありそうです。
 さて、仮に「原罪には実体はない」としても、それで人間に関する問題が解決したわけではありません。大きな課題が残されています。それは、

 人間には血気・怒気をはじめとする堕落性が厳然として残っている。
 それが、祝福家庭を見るかぎり、祝福以後、解決されてはいない。
 さらには、理想を完成したと言える個人・家庭がいまだに現われていない。

ということです。

「縦的神の愛と横的父母の愛。縦的な真の愛と横的な真の愛が一つになって、世界の血統的内容を抱擁した上に立つ愛を、真の愛というのです。そこが私たちの生命の元になります。」(祝福 63 P159)

 以前の記事でも提示したみ言の一部ですが、この御言の通りの「真の愛」を完成した家庭があるのでしょうか?

 堕落性がしみついた人間が堕落性とともに繁殖してきた。
 どこにも人格完成・家庭完成した実体はない。
 そもそも理想の個人・家庭の完成について何を目指せばいいのか、いまだにはっき 
りとわかってはいない。

 ここに、「原罪」という言葉の背景があるように思います。私達を完成に至らせない要因です。
 そこで、必要とされるものの1つに「モデル理想家庭」があると思います。言い換えれば、そもそも、エデンのそのにあったはずの生命の木と善悪知るの木です。それを私たちは「創造理想を完成した男性と女性」と理解してきたはずです。神様がアダムとエバに示した完成理想と理解してきたのではないでしょうか。それが、今の時代、どう見まわしても見当たりません。すでに文先生が他界された今でも。
 その理想モデル家庭を見ずに完成できると信じている食口が多いことに私は驚きを感じます。もしそれが可能なら、そもそもエデンの園に生命の木と善悪知るの木があったという聖句およびその原理的解説は必要なかったはずです。
 この「モデル理想家庭」という言葉自体は文先生が御言や講演の中で使っておられた言葉でもあります。そして、それは、私が過去の記事 (御言 missing link ⅠⅡ) の中で何度も申し上げてきた

「後継者」
「直系を受け継ぐ一中心」
「第4次アダムの中心」
「氏族メシアの中心」


 のことなのではないかと考えています。
 また、このことは、文先生がどんなに言いたくても明言するわけにはいかなかった内容だったのだと思います。人間の成長・完成にかかわることであり、自己責任分担に抵触するからです。
 そして、その「モデル理想家庭」がまだ現れていないとしたら、それは、必ず現われなければならないと思います。
 また、晩年、文先生は、「原罪」という言葉よりも「血統」と言う言葉をよく使っておられました。「血統」という言葉は、「平和神経」に何度も出てきます。この言葉を探すのはたやすいのですが、「平和神経」で「原罪」という言葉を探すのは大変です。私の記憶(不確かではありますが)では「原罪」という言葉は、ほんの2~3回程度しかなかったと思います。
『平和神経』にある「平和メッセージ」が訓読されるようになった2005年以降は、全人類的に、すでに「原罪」という言葉に決着がつき、その概念が終了した時代となっていたのかもしれません。

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