原理講論では、原罪を
「人間始祖が天使と不倫なる血縁関係を結んだこと」
と定義し、その原罪が子々孫々受け継がれてきたと、説明しています。
ですが、次の御言を読んでみてください。少し違う意味が見え隠れします。何をおっしゃりたいのかつかみにくいところがありますが、そこに重要だけれども、はっきりと教えることのできない内容がありそうです。
「このように見るとき、二つの父母が生まれました。神様側の息子、娘は天国に行くのであり、サタン側の息子、娘は地獄に行くのです。見えない霊的父母である神様とサタンの間で、分かれたのでしょうか? そうでなければ、見える私たち人間、子女の立場から分かれたのでしょうか? 今日、この地上で愛というものが始まるとき、人が一人だけで関係を結んで、始まったのでしょうか? 見えない神様と二人の間で関係を結んだのでしょうか? 見える人同士で愛の関係を結んで始まったのでしょうか? そうではありません。見えない父が二人いて始まったので、どちらか一人の父親が先に、この愛の関係を結んだというのは間違いないと考えるのです。愛の関係は、同時に二人と結ぶことはできないからです。見えない霊的サタンと神様のうちで、どちらの父と関係を結んだのでしょうか? (『サタンです』)。皆さんは、サタンを見ましたか? (笑い) キリスト教が、根本問題であるこのようなことを考えなければならないのです。元来は、神様が父母にならなければならないはずなのに、サタンが父母になったという事実は、善悪を知る木の果を取って食べたことによってなったのでしょうか? 何の関係によってなったのでしょうか? これは深刻なことです。愛の問題を離れて、善悪を知る木の果を取って食べることによってサタンが父親になり得るのだろうか、という問題です。(『愛の関係によってです』)。見ましたか? 神様がこのような愛の関係を結んでいたならば、そこで、サタンの父母が生まれ得るでしょうか? (『生まれ得ません』) では、堕落が何かというのです。神様と愛の関係を結んだ因縁を、失ってしまったのが堕落なのです。分かりましたか? (『はい』)」 (ファミリー98年1月 P8 真の子女の勝利圏を完成しよう 父子の関係は血統的関係)
最初に、
「二つの父母が生まれました」
とありますが、これは、この後に
「見えない霊的父母である神様とサタンの間で、分かれたのでしょうか?」
とありますから、神様とサタンのことだと理解できます。また、
「この地上で愛というものが始まるとき、‥‥見えない神様と二人の間で関係を結んだのでしょうか? 見える人同士で愛の関係を結んで始まったのでしょうか?」
とありますが、「見える人同士」というのは、その前に、
「見える私たち人間、子女の立場から分かれたのでしょうか?」
とありますから、アダムとエバのこととなります。
この「見える人同士」であるアダムとエバが「愛の関係を結んだ」ことによって「この地上で愛」が始まったわけではなく、その前に、
「見えない父が二人いて始まったので、どちらか一人の父親が先に、この愛の関係を結んだというのは間違いないと考えるのです」
と言っておられます。
サタンと先に愛の関係を結んだということを指摘しておられるようです。
「愛の関係」という言葉は、縦的なものと横的なものがありますが、そこをはっきりとさせずに使っておられるようです(重要だけれども、はっきりと教えることのできない内容があるため?)。ここでは、
「神様がこのような愛の関係を結んでいたならば、そこで、サタンの父母が生まれ得るでしょうか?(「生まれ得ません」)」
とあることから、「どちらか一人の父親と先に結んだ愛の関係」とは、本来神様と人間が結ぶべきであった、父子関係における縦的な愛の関係のことのようです。
また、中ほどでには、
「キリスト教が、根本問題であるこのようなことを考えなければならないのです」
とありますが、このような場合、私達は、
「クリスチャンは、善悪知るの木の果というのがあって、それを食べたことが原罪となったと、いまだに信じているんだから‥‥‥」
と思ったりします。
この「キリスト教」とは、文字通りのキリスト教でしょうか? キリスト教を代理する使命をもった統一教会のことを言っておられる可能性があるということはないでしょうか? 基本的に、キリスト教が考えなければならないとことは、私たちも考えなければないことのはずです。
私達が、教えられてわかったのではなく、悟って分かったとするために、このような置き換えをされた可能性があります。
もしこのようなとらえ方が正しければ、上の御言の後半にある
「サタンが父母になったという事実は、善悪を知る木の果を取って食べたことによってなったのでしょうか? 何の関係によってなったのでしょうか? これは深刻なことです。愛の問題を離れて、善悪を知る木の果を取って食べることによってサタンが父親になり得るのだろうか、という問題です。」
という部分ですが、文先生は、食口が集まっているこの場面で、「善悪を知る木の果を取って食べる」ということの意味を、ただ原理講論的に説明しておられるとは考えにくいと言えます。他の意味があるのではないでしょうか? 以前にも提示した次の御言も視野に入れてご検討頂きたいと思います。
「皆さんは先生が分かりますか。先生が分かりますか、分かりませんか。どう分かりますか。先生の何が分かりますか。顔だけが分かるでしょう。皆さんが分かる原理を教える程度の先生だと思いますか。皆さんが分かる原理は、イエス様までの原理です。先生の時の原理ではありません。」(祝福家庭と理想天国Ⅰ P802 「祝福の意義と価値」)
もし、上の御言の「キリスト教」が「統一教会」の置き換えであるとしたら、ここは、青字の部分を次のような言い換えることができるのではないでしょうか。
「サタンが父母になったという事実は、性的な関係によってなったのでしょうか? 何の関係によってなったのでしょうか? これは深刻なことです。(縦的な)愛の問題を離れて、性的な関係によってサタンが父親になり得るのだろうか、という問題です。」
そうであれば、「いったいどうやってこの問題を解決できるのだろう」となるぐらい確かに「深刻」なことなのかもしれません。
「愛の関係によってです」と誰かが答えていいますが、それに対して「そうです」とは言わず、
「見ましたか?」
と言っておられます。それは、
「見ていない」、「見えない」
ということを確認することで、見えない関係が重要で、そこに堕落の出発点があったということを言われたかったのではないでしょうか? そもそもが、「性的な関係を結ぶことで親子になる」ということ自体がおかしな論理展開だと言えます。
「では、堕落が何かというのです。神様と愛の関係を結んだ因縁を、失ってしまったのが堕落なのです。分かりましたか?」
最後は、私達に理解できる言葉で結んでくださっています。
「神様との愛の関係を結んだ因縁を失ってしまったのが堕落」
だと言っておられます。私たちはこの状態を、堕落の結果ぐらいにしかとらえていないのではないでしょうか。
このことは、先回確認した「父子関係」つまり
「永遠に切り離そうとしても切り離すことのできない、絶対的に一つになった関係」
ということと関連すると言えます。そのような関係を築くことができなかったことが堕落だということになるでしょう。
「父子の関係は血統的関係があります。このことを知らなければなりません。」 (ファミリー 98年1月 P9 真の子女の日の御言葉)
「愛には縦的愛と横的愛があるのです。父子関係は縦的愛であり、夫婦関係は横的愛です。縦的愛は血統的につながり、夫婦関係は血統的につながりません。分かりましたか?」 (女性訪韓修練会御言集 P12)
「原罪」というものに、もう一歩踏み込んで理解すべき本質があると思います。
堕落、原罪と言えば「性的なもの」というのが私達の認識だったと思います。ですが、
「夫婦関係は血統的につながりません」
とのことです。
これをそのまま受け止めれば、原理講論の堕落論が説いている「不倫なる血縁関係・淫行関係」そのものは血統的にはつながらないと理解できます。
上の御言には、
「愛には縦的愛と横的愛があるのです」
「神様と愛の関係を結んだ因縁を、失ってしまったのが堕落なのです」
とありますから、そこから「原罪」というものを考える必要があるのではないでしょうか。
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