34.2つの中間位置 | 御言 missing link

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 原理講論は、人間は堕落することによって原罪を持つようになり、神様とサタンとの中間位置におかれるようになったと述べています。また、人間自身が、神様が取ることのできる善なる条件(蕩減条件)を立てることにより、サタンが分立されていくと説明しています。
 この「中間位置」に対して、私達は、堕落の結果生じたものであって、本来創造本然の世界にはなかったと理解してきました。しかしながら、善と悪の両方に仕えるという意味での中間位置は本然の世界には存在しなかったでしょうが、未完成から完成に至る過程という意味での「中間位置」は存在したはずです。
 記事NO.13では、文先生が天使長の話をされる際、その天使長には2種類があるということを述べました。1つは、聖書等に出てくる、いわゆる天使長です。もう一つは、真のアダムを迎えるための天使長家庭であり、これは未完成状態にありながらも、歴史的な恵沢と本人たちの信仰や努力により、長成期完成級までに至った家庭です。
 文先生が私達の復帰・完成に関する話をされるときは、後者の天使長のことを言っておられることがほとんどのようであり、それを文先生は「天使長家庭」といって区別されているようだということを申しあげました。
 この天使長家庭は、完全に神様と一体となったわけではありませんから、アダム・エバと同様、堕落する可能性を持っています。その意味で、この天使長家庭は中間位置であると言えますし、そうであれば堕落前のアダムとエバも中間位置だとったいうことができます。原理用語の中間位置と同じ言葉ですが、原理講論の定義から見ないようお願いします。つまりは、堕落があったので、それで初めて「中間位置」という存在が生じるようになったというわけではないということです。
 また、記事NO.13では、上で述べた「天使長家庭」は、アダムとエバの時代にもいたはずだということを述べました。私達は、私達の目には見えない霊的な存在である天使長がアダムとエバを保護し、養育する立場だったと理解してきました。しかしながら、実際の天使長家庭が上で述べたような地上の家庭だったとすれば、その保護・養育する役目を担っていたのは、アダムとエバを生んだはずの当の両親、さらにはその親族も同様の役目を担っていたはずではないでしょうか。
 文先生の御言によれば、愛の横的展開と成長のためには、家庭における女性の役割が不可欠とのことです。記事NO. 19 でも提示した次の御言で、確認して頂ければと思います。

「神様の見えない無形実体の中には、第一に子女の愛があったのです。(先生が黒板に図を書かれながら説明される)その子女の愛がどんどんどんどん大きくなって、プラスして兄弟(姉妹)愛となり、さらに大きくなってプラスして夫婦愛となり、これがまた大きくなってプラスして父母愛というように発展してきます。子女の愛よりも兄弟の愛が大きくなっているのですが、どういうふうにして大きくなったのかというと、アダムとエバが兄妹愛を考えるとすれば、エバはお母さんが愛するアダムとして、まず、お母さんを中心として考えるのです。お母さんが愛する兄さんにプラス、自分(の愛)となるのです。エバはお兄さんを思う時、直接に思うのではなく、まずお母さんがどういうふうに兄さんを愛するかということを中心として、エバ自体も、それに伴って愛するのです。こういうように、二重になるのです。アダムも、お母さんがエバを愛する愛に、自分の愛を加えるのです。こういう関係です。だから兄弟愛は大きくなっていくのです。このようにしてだんだん大きくなって上がっていくのです。兄弟愛の次に、夫婦愛とは何かというと、父母を中心として、自分たちはそれまで兄妹同士としてやってきたのですが、ずっと父母が上がっていくというと、こちらは霊的には下がってくるのです。良心的にはこれで四段階です。これは相対的になっているのです。これはずっと上がっていくというと、これはずっと下がってくるのです。こういう関係です。」 (女性訪韓修練会御言集 )

 文先生は、「お母さんを中心として考える」ことによって、「だんだん大きくなって上がっていく」と言っておられます。この原則が、アダムとエバの愛の成長に関しては別なのでしょうか。そうではないはずです。つまり、アダムとエバに母親がいなければ、彼らの四大心情圏の子女の愛、兄弟姉妹の愛が「だんだん大きくなって上がっていく」ということが成し得ないはずですし、完成段階に向かうことはできません。
 ですから、私達は、「最初の人類として、いきなりアダムとエバが誕生した」という聖書的見地に対していったん距離を置き、少しだけ科学的な見方を取り入れて、アダムとエバの誕生を考える必要があると思います。
 神様は、いきなりアダムとエバを造られたわけではなく、歴史をかけて、猿人・原人・旧人・現生人類と成長させてきたのであり、その中で、母親を中心として、横的な愛の展開と愛の成長を図ってこられたのではないでしょうか。人間が完成しなければ、神と人間が完全一体となることはできませんが、未完成段階では、全く神様がその人間と共感できるものがないのかといえば、神様の偏在性から考えて、そうではないはずです。人間の成長に応じて、神様が感じてこられた喜びの刺激があったはずです。記事NO. 19 で「神様が成長してこられた」という御言を提示しましたが、それは、上で述べたような人類の愛の成長段階のことを含めて言われたことなのではないでしょうか。以前
「神様がお一人でおられたとき、愛は実体ではなく概念でしかなかった」(記事NO.7)
 という御言も提示しました(下の「補足」に再提示しておきます)。神様がお一人でおられたときの成長も概念としてはあったということになりますが、文先生が言われたかったのは、決して概念についてのことではなかったはずです。
 神様は、長い年月と累代を重ねながら蘇生的愛、長成的愛の成長を図られ、ようやく最終段階にきて、あと一代で完成するというところまできたのが、アダムとエバが誕生した家庭だったのではないかと考えられます。
 そして、その家庭がアダムとエバにとっての天使長家庭であり、また、周辺には親族の家庭もあったでしょうから、そこもまた天使長家庭だったはずです。文先生の御言には、イエス様の時の天使長家庭として、ヨセフ家庭とザカリヤ家庭をあげて説明をされた内容があります。ですから、文先生の説く「天使長家庭」は1家庭だけとは限りません。
 また、成長期間の長成期完成級とは、神様から見れば、天使長家庭(未完成の人間の家庭)を通して得ることのできるその段階における最高の愛の喜びのレベルを示しているとも言えるでしょう。 
 文先生の御言によれば、真のアダムを迎えるためには、天使長家庭の基台が必要だとのことです。私達は、このことを、堕落世界にメシアを迎えるために、創造原理をもとにした復帰原理として成されたことと理解してきましたが、「創造原理をもとにした」ではなく、創造原理そのものの適用だったと言えるでしょう。

〈補足〉
「それでは、この宇宙が生まれる前に、何があったのですか。(「神様です」) 神様です。神様だけがおられましたか? (「愛です」)。愛は見えますか? 愛の実体がないのに、愛はどこにありますか? 愛は概念です。神様にとっても、愛は概念であるということを知らなければならないのです。
 ですから、一人で愛の実体に出会うことはできません。二人いて初めて出会うことができるのです。パートナーがなくては愛は成立しないのです。愛というものは、神様の中の概念としてはあったかもしれませんが、愛という実体はなかったのです。
それゆえに、愛というすべては、主体と対象のペアシステムにならざるを得ないということを知らなければなりません。」
 (1998年5月26日 ベルべディア)

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