21.「神様が人間を愛で主管するために待つ期間、それが成長期間」 | 御言 missing link

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 原理講論には、
「成長期間(間接主管圏、原理結果主管圏)と人間の責任分担、および責任分担が人間に与えられた目的」
について、次のように説明されています。

「万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成するように創造された。すなわち、『それを取って食べると、きっと死ぬであろう』(創二・17)と言われた神のみ言を見れば、人間始祖が神のこのみ言を信じて、取って食べずに完成するか、あるいはそのみ言を信ぜずに、取って食べて堕落するかは、神の側に責任があるのではなく、人間自身の責任にかかっていたのである。したがって、人間が完成するか否かは、神の創造の能力にだけかかっていたのではなく、人間自身の責任遂行いかんによっても決定されるようになっていたのである。それゆえに、人間は神の創造主としての責任分担に対して、人間自身の責任分担を全うしながら、この成長期間(間接主管圏)をみな経過して、完成するように創造されていたのである。したがって、その責任分担については神が干渉してはならないのである。
 このように、人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった(創一・28)。人間が万物と違う点は、正にここにあるのである。」(原理講論 P79)


 中ほどに、
「成長期間(間接主管圏)をみな経過して、完成するように創造されていたのである。したがって、その責任分担については神が干渉してはならないのである。」
 とあります。そして、神も干渉できない責任分担を人間に与えられた理由については、最後の部分に
「神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった。」
 と説明しています。
 ところが、文先生の御言の中には、この成長期間(間接主管圏、原理結果主管圏)と人間の責任分担に関して、上のような内容だけでなく、真の愛、言い換えれば縦的な愛と横的な愛という概念を中心として説かれているものが存在します。それは、原理講論を読むだけでは、なかなか察することのできない内容だと思います。

「人間が成長するための間接主管圏をおいたのは、人間が成熟することを願う神様にとっては不可避なことだったということを論理的に解明できなければなりません。原理結果主管圏をなぜつくったのでしょうか。これをつくらなければ成熟したという限界、その時をつかむことができません。思春期という時をどこに定めるのかというのです。それで原理結果主管圏において、思春期になる時まで待つのです。ゆえに愛は、神様が全部干渉してはいけないのです。人間が必要とするものは何かと言えば、絶対的な愛です。」 (罪と蕩減復帰 P12)

 ここで、
「原理結果主管圏をなぜつくったのでしょうか。これをつくらなければ成熟したという限界、その時をつかむことができません。」
 と言っておられますが、これは、簡単に言ってしまえば、
「原理結果主管圏がなければ、成熟したかどうかがわからない」
 という意味だととることができます。
 ここでいう成熟とは、いうまでもなく、身体的なものだけではなく、愛の成熟のことであり、四大心情圏の言葉で言えば、「子女の愛」「兄弟姉妹の愛」が成長し、そこから「夫婦の愛」へと向かう、愛の成熟のことです。
 そして、「成熟したかどうかがわかる」つまり「その時をつかむ」ためには
「思春期という時をどこに定めるのかというのです」
 とあるように、「思春期」を定めることが必要だったようです。
 そして、
「それで原理結果主管圏において、思春期になる時まで待つのです」
 とあるように、成長期間(原理結果主管圏)は、神様も、アダムとエバが思春期になる時まで待っておられた期間であったということになります。
 そのことをふまえて、次の御言もお読みください。

「男女間の愛は、思春期を中心として成熟してこそ始まるのです。そのときまで神様は完熟する愛の道を眺めながら、待っておられたことでしょう。そして統一教会の原理ではこれを原理結果主管圏といいます。(原理結果主管圏があるのは、)成長期間を通らずには完熟した愛の基を据えられないからです。神様が人間を愛で主管するために、待つ期間があるのですが、これが成長期間、すなわち原理結果主管圏なのです。
 神様がアダムとエバを見て『取って食べるな』と言ったのは、彼らが愛することのできる時機になっていなかったからです。彼らは成長期にいたので成熟するまで待てとの戒めだったのです。」
 (祝福家庭と理想天国Ⅰ P418)

神様は間接主管圏をなぜ造られたのか、分かりましたね。なぜ造られたかというと、人間が思春期になるのを待つための期間なのです。しかし、神様は無駄なことはされません。責任分担という期間を通過することは、人間特有の絶対なる神の相対権限を得るために重要なことなのです。だから人間は縦的基準を結んでからでなければ、決して横的基準を結んではなりません。」 (ファミリー89/9 P23~25 なぜ原理というのか 1985年12月 8日 ベルベディア)

「アダムとエバは、16、17、18歳になれば自然と思春期になり、異性に目が開くようになります。花が一面に咲くとき、人が(その)香りに酔うように、アダムとエバが成熟すれば異性を考えるようになります。この香りに神様も一緒に引き込まれていくのです。神様の愛とアダムとエバの体と心、この三つが一つになれば宇宙の核が生じて、すべての愛をコントロールする本軌道に入ることができるようになります。ところがここで脱線しました。脱線しなかったならば完全に一つになったでしょう。このように一つになったなら、神様も離れられず、アダムとエバも離れられなかったはずです。そして子々孫々に連結され、氏族、民族、世界を形成したことでしょう。ここが素晴らしい世界、地上天国になるのです。」 (祝福家庭と理想天国Ⅰ P421)

「成熟して、思春期を越えて、垂直の親と、横的親の立場にあるアダムとエバが、真の愛を中心として垂直角の集中点に結束すべきだったにも拘らず、それができずに堕落したのです。それで、元々神願う成熟点において、垂直水平の真の愛の結着点、結束点が始まっていないために、いかに人間が努力し、これを探り、定めようとしても分かりません。真の愛を知らなかったからです。」 (祝福61号 P129~130 愛の垂直線と水平基準 1989年1 月12日 一和研修院)

「アダムとエバが身体的に成熟しながら一緒に出歩くようになります。一緒に行き来していてびっくりするような場面を見れば、エバが『まあ、怖い!』と言いながらアダムの胸に抱かれたり、後ろに隠れることが起こるようになったのです。エバがアダムの胸に抱かれれば、怖かったのが安心でき楽になるのと同時に、アダムから強力な男性的衝撃を受けるのです。アダムもまた嫌な気もせず、エバから自身とは違う性的衝動感を受けたでしょう。このようなときアダムとエバのうち、性的モーションをどちらが先にかけたのですか。「怖い」とアダムの胸にかけ込んだエバがかけたのです。そのときから彼らには次第に愛の接線ができるようになったのです。
 神様は愛で被造世界を創造されました。それゆえアダムとエバは、神様の愛を中心にして被造世界を愛の組織体としてつくり、神様に連結させなければなりません。そのような任務をもったアダムとエバは、どんな姿勢をもって神様が許された愛を共有するようになるべきかを、考えていなければなりませんでした。この愛の問題は極めて重大なことで、彼らの生死を狙うものになりかねないのです。
 人間は思春期を望みながら(その)一時を中心に出てきました。そのときまで待つべき理由がどこにあるのかを知らなければなりません。ただちに男性、女性が一つになり愛すればいいのに、なぜ待たなければならないのでしょうか。
 愛のゆえにそうせざるをえなかったのです。成熟することのできる思春期時代までの期間が必要であるため、その期間まで過程的な要件を整えなければなりません。
 神様と人間が完全に一体となり、人間が神様の直接主管を受けるようになる時はいつからですか。(それは)男女が個体を完成させ、愛を授け受けるときからです。また、すべての面で成熟した人間本然の愛と、(そして)主体と対象間の相対的環境を整えられる(ときからです。そして)、その位置をいうのです。そうなれば神様と人間が愛を中心にして混然一体となり、永遠なる正道の軌道を走るようになるのです。」 
(祝福家庭と理想天国Ⅰ P420)

 上の御言の何か所かに、以前確認した「縦的な愛と横的な愛、およびその交差」という真の愛の概念が含まれています。
 その真の愛の理想を完成させるためには、成長期間が必要だったのであり、その最大のポイントが「思春期」だったということのようです。それは神様にとって「戒め」を与えなければならないほど心配な期間だったのでしょうが、一方では
「アダムとエバは、16、17、18歳になれば自然と思春期になり、異性に目が開くようになります。花が一面に咲くとき、人が(その)香りに酔うように、アダムとエバが成熟すれば異性を考えるようになります。この香りに神様も一緒に引き込まれていくのです。」
 とあるように、その時がくるのを、つまり「この香りに神様も一緒に引き込まれていく」ようになることを、希望をもって楽しみにされていた期間でもあったと言えるでしょう。

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