31.「愛において絶望の王です」 | 御言 missing link

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31.「愛において絶望の王です」

 先回の記事で、最後に提示させて頂いた御言の中に 

「聖進の母親が、そのように妹を育てて、そのようにすることができる、このような立場を助けてあげなければなりません。ところが、それをしないで反対したのです。すべて破綻したのです。」 (ファミリー2003年11月号 第15回「八定式」におけるみ言葉 P34)

 という部分がありました。

 聖進様のお母様は妾の立場であられるという主張があります。離婚された立場の方を妾と呼ぶということには疑問も残ります。ですが、文先生が聖進様とそのお母様について語られた御言があるのは、そこには何か重要な意味があるからなのかもしれません。

 今回は御言の提示が長くなりますが、最後までご一読願えればと思います。

 また、私などが批評を加える資格はないと思いますので、説明は最小限にさせて頂きます。

「カイン圏を復帰できない場合、いくら子供を生んでも愛することができません。だから先生は長男の聖進様が地上に生まれても、カイン圏が復帰できなかったのだから、愛することができませんでした。それで母子共に放りっぱなしにして、北韓に行って民族的な復帰基盤をつくらなければ、帰って来て氏族的基盤あるいは家庭的基盤を保護することができませんでした。そういうことから、あのような運命になったのです。厳しい道がありました。先生は聖進様が生まれた時、キスもできませんでした。そうして生まれて二ヶ月以内にわかれてしまいました。手紙一本も書きませんでした。書けば神が保護してくれない、それは無慈悲な道なのです。そうでしょう。出家した者がどうして後を振り返ってよいでしょうか。ソドム、ゴモラを出る時のロトの妻と同じように、もし出発する者が後を振り返るとすれば、その間にはいろいろな問題があって、今の統一教会の副作用をきたしているのです。」 (祝福23号 P130~131 故郷に帰りましょう 1978年9月22日)

 別の御言です。

「先生は荷物をまとめて北に行ったのです。何か準備をして、挨拶をしてから発って行ったのではありません。皆さんは挨拶をして発たないのか、というのです。先生はその時、漉探でお米を買っておいたのです。解放された後には、ソウルでお米を買うことができませんでした。それで、そのお米をトラックに積んで来ようと思って行く途中、その車の中で、『38度線を越えなさい』という天命を受けたのです。どうしようもなかったのです。『ああ、妻と子供に連絡しなければならない』と言うことができなかったのです。
 その時、家にはお米が一升もなく、隣の家に住んでいる友達の家に行って、『明日の朝までに返しますので、米一升だけ貸してください』と言って、持って来ておいたのです。すべてをなめて、食い潰してしまって、お金が一銭もなかったのです。そのような状態で38度線を越えて行ったのです。こういうことができるかというのです。その時、聖進が4月2日に生まれたので、1ヵ月半、約50日ぐらいになっていました。1946年5月27日に命令を受けて出発して、6月6日に平壌に到着しました。血だらけの者を置いて……。
 当事の聖進のお母さんの年令はいくつかといえば、22歳でした。親戚も誰もいませんでした。艱難の中で皆別れてしまいました。そのような人に、行くとか、来るとかという挨拶も無く去って行きました。行ってからも手紙を出しませんでした。どうせ覚悟した道なので、挨拶をして立てば不浄のためにたたると思ってそうしました。子供のために涙を流せば、不浄のためにたたるし、妻のために祭物を捧げる体は、不浄にたたるというのが先生の考えでした。
 すべてのものをそのままに置いて出陣する兵士の心情で、『私は死地に向かって、監獄に行く迫害の道が横たわっているのである。この手が裂かれるのか。この足が折れるのか。いつどこで銃弾が飛んで来て、私の脇腹を貫通するか、後ろから貫通するのか、前から貫通するのか。』 そのように深刻だったのです。死ぬ覚悟をして、北を訪ねて渡ったのです。
 これから私が手記を書けばいいのですが、そういうものは書こうとは思いません。何日に、どういうことがあったということをみな知っています。しかし、私は手紙を一枚も出せませんでした。天の前に任せた後には干渉してはいけないのです。『ああですか。こうですか』と、聞いてもいけないというのです。私は両親と離別して分かれた後に、北韓で、神様の前に『私のお母さんお父さんを幸福にしてください』という祈祷を一言もしなかったのです。私が祈祷をすれば、死んだのか、生きたのか、ということがすぐに分かりますが、今まで知ろうとしなかったのです。しかし、誰々が一遍に死んでしまったということを霊的に知っているのです。今まで、そのような賭けをしてきたのです。
 その後、私が南に戻って来た時、聖進と聖進のお母さんがどのような生活をしていたかということを、みんな知っていました。どこに行けば必ず会うことができるということも知っていましたが、行きませんでした。私が修道の道において、み旨の道で出会った人々を解決しなければなりませんでした。私がこの道を出発したことは、聖進のお母さんに会うためではありません。
 カインを復帰して帰って行くために、この世の人々のために、この道を最後まで捜し求めたのですが、その人々が相手にならず、相対的な立場に立たない時に、私は責任を果たした後に私の家を捜し求めて行ってこそ、引っ掛からないのです。私が家を出てから3年6ヶ月経っていました。手紙一枚だけ出せば、すぐにでも会うことができたのですが、手紙を出しませんでした。私が会わなければならない人、神の前に誓い、約束した数名の人々に出会うことができなかったので、彼らに会うまで待たなければならないのです。その人々に会うや否や連絡したのです。連絡するとすぐに来ました。
 この世的に見た場合、私は夫という立場であるにもかかわらず、子供が7歳になって初めて会ったのです。その時には、食口達と一緒に過ごしていた時でした。お婆さんたちを引き連れていた時でした。ところが、『私の息子が来た』と言って、私が喜んで迎えると引っ掛かってしまいます。
 アベルは誰を通じてですか? カインを通じて紹介を受けて、愛さなければなりません。カインが、『あなたが聖進様ですか。 先生、聖進様が帰って来ました。』と言って抱いて、愛の表示として一つになって迎えなければなりません。これが原理の法度です。
(祝福72号 P109~112 我が家庭の行く道 前編 1971年8月28日 清平修練所)

 当時の先輩方を非難する資格は私にはありませんが、 
「『私の息子が来た』と言って、私が喜んで迎えると引っ掛かってしまいます。」
 という文先生のお立場を察して、
「『あなたが聖進様ですか。先生、聖進様が帰って来ました。』と言って抱いて、愛の表示として一つになって迎えなければなりません。これが原理の法度です。」
 ということができなかったとしたら、それは本当に残念なことです。

 では、上の御言の続きです。

「聖進と聖進のお母さんが私のところに来た時、先生が『この子が聖進か?』と言ってしまいました。それが、聖進のお母さんには一生の間、恨めしいと思っていることなのです。世の中に、熊や虎も自分の子供を保護するのに、この人は一体何者かというのです。死地においてあらゆる苦労をして、初めて父子が出会うのに、『お前が聖進か』と、手も一度も握らないで、ぼんやりと門前で立っていても、『入って来い』という話もしなかったのです。そういう話は食口がしなければならないのです。私は原理的に生きようと、今までも、ありとあらゆる悲惨な境地を経たのです。
 いったん神の前に預ければ、神はすべて責任を持ってくださいます。み旨からみれば、父母が神の前に孝の道理を果たせば、その子供は父母の前に孝の道理を果たさなければならないというのです。そのようにして出会った息子が、お父さんに何の情が行くでしょうか。それにもかかわらず、聖進は、自分のお母さんが反対する中で、7歳の時に母親を置いて、お父さんを訪ねてきました。お母さんが金だ玉だと言って愛しながら、7歳になるまでおんぶして育てたのに、そのようにお母さんを捨てて、自分のために何もしてくれなかったお父さんを捜して来たのです。誰かが誘って来たのではありません。自分の足で歩いて来たのです。そして、お母さんが迫害しようとすれば、事前に来て、すべてを教えてくれるのです。これは本当に、不思議なことでしょう。そういう子に、一度も教育をしたことがないことを申し訳なく思います。原理がこのようになっているという教育を、一度もしてあげられませんでした。父親としての責任を果たせなかったのです。この世的に見た場合、父親としては0点だったというのです。
 60年代になるまでは、私は聖進を他人の家で生活させました。何故でしょうか。復帰原則を歩んで行かなければならないからです。カインがアベルと一つにならなければならないからです。それで疎か(おろそか)にされながら学んだ人になりました。迫害を受けてはいけない環境にいなければならないにもかかわらず、このようなことがあるために、他人の家で生活させたのです。聖進が小学校に行っている時にも、私は鉛筆一本も買ってあげませんでした。60年代に聖婚式をして初めて顔を……。」
 (祝福72号 P112 我が家庭の行く道 前編 1971年8月28日 清平修練所)

 これらの御言を読みながら、私は、
「先生の人生は涙の王であり、苦痛の王であり、十字架の王であり、愛において絶望の王です。そのような道を歩んできました。」 (ファミリー 98年8月 P20 真のご父母様 聖婚記念日のみ言)
 という御言を思い出しました。

 次は、上と同じ御言の中の別の箇所です。

「家庭的第一次七年路程を越えて、次に子女達が行かなければならない七年路程があるようになるのです。それで皆さんが七年路程を行くのです。わが聖進がこの時に定着することができなければ、大変なことになるのです。感謝すべきことに、日本にいてみ旨をなしたということです。これがすべて蕩減復帰なのです。そのような内容を中心として、聖進が、今はかなり定着したというのです。今、日本の幹部達が付いて回っています。それ故に、皆さんの家庭も聖進を中心として見た場合に、皆さんが蘇生級であれば、聖進は長成級にいるのです。そのような立場が成立するのです。この二つが一つにならなければなりません。復帰の道は簡単ではありません。 (祝福72号 P85 我が家庭の行く道 前編 1971年 8月28日 清平修練所)

 ここでは、聖進様が「み旨をなした」、「定着した」と言っておられます。その定着は「皆さんが七年路程を行く」ために必要だったようです。このことは、復帰の原則から察するに、大変なことを言っておられるように思います。もう一度要点と思われるところを振り返りますと、

「皆さんが七年路程を行くのです。わが聖進がこの時に定着することができなければ、大変なことになるのです。」
「日本にいてみ旨をなしたということです。これがすべて蕩減復帰なのです。」
「そのような内容を中心として、聖進が、今はかなり定着したというのです。」
「今、日本の幹部達が付いて回っています。」 
「皆さんが蘇生級であれば、聖進は長成級にいるのです。そのような立場が成立するのです。この二つが一つにならなければなりません。」
「復帰の道は簡単ではありません。」


「聖進様と一つになって、7年路程を行く、つまり、復帰していく」 ということは、このときの聖進様のお立場とは一体‥‥‥?

 と考えてしまいます。ここでも、明言は控えますが。
 ただ、この御言が、象徴的あるいは形象的な復帰のことを言っておられるのか、それとも実体的な復帰のことを言っておられるのかは、はっきりとはわかりません。ですが、当時の基盤や基台を考えると、少なくとも、文先生が、聖進様を通して、「三代の継続」の道を、象徴的あるいは形象的に開かれようとしたのではないかと考えられます。

 そして、もう一つ重要なことがあります。
 それは、このとき、聖進様が、お立場上、庶子の立場におられたということです。
 
 なお、上の御言の
「日本にいてみ旨をなしたということです」
 の部分ですが、以前見た別の資料では
「日本にいてみ旨を理解したということです」
 となっていたように記憶しています。もしかすると、こちらが正しいかもしれません。祝福72号がなく、確認できていません。この点をお断りしておきます。あいまいなままの提示で申し訳ありません。

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