32.「これは正妻ではできません」 | 御言 missing link

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32.「これは正妻ではできません」

 次の2つは先々回の記事の中の御言です。それを踏まえた上での今回の記事となりますので、再度ご確認下さい。

「‥‥‥それで、妾として、妾の女を連れて神のほうに戻っていかなければなりません。そうなると、妾は本妻の、正妻の怨讐です。地獄にみな同じく入ります。抱き合って転んでそこに行こうというのです。大変なことです。これをなだめて一つにならなければならないという、復帰された家庭にはそういう内縁があることを知っているのだから、神様はそれを収拾するために、『怨讐を愛せよ』ということを発布せざるを得ませんでした。分かりましたか?(はい)。」(女性訪韓修練会御言集 P114)

「そのためには、聖進の母親が、そのように妹を育てて、そのようにすることができる、このような立場を助けてあげなければなりません。ところが、それをしないで反対したのです。すべて破綻したのです。」 (ファミリー2003年11月号 第15回「八定式」におけるみ言葉 P34)

 さらに、次の2つの御言をお読みください。

「今、この御旨が成されれば、聖進のお母さんは、お母様を愛さなければならないのです。愛さなければ駄目なのです。離婚したその聖進のお母さんを、お母様は今まで一生涯、後援してあげました。会ったこともありません。お母様が素晴らしいのはそこです。あらん限りの力を尽くして助けてあげるのです。
 家も買ってあげるのですが、自分の家を買う前に、その家を買ってあげるのです。お母様はそのように考えるのです。ために生きるからです。そのような面で素晴らしいお母様です。先生がそれ(聖進のお母さん)を助けることができるなら助けます。愛ですることを妨げてはならないのです。」
 (祝福家庭10号 P22 神と共にある家庭 1998年 5月19日 ウルグアイ)

「この前、聖進の母親が住む家の前までお母様を連れていったのです。この世的に考えれば、そこはお母様がついていくところではないのです。背を向けるべきところなのです。そして家を買ってあげるにも、全部お母様が買ってあげるようにしたのです。今までも生活費をまかなってあげたでしょう。別れた中でも今まで夫の役割をしてきたというのです。復帰はそのように難しいのです。 それはすべて、蕩減条件に引っ掛からないためです。私だけではありません。お母様もそのようにしなければならないのです。女性の中の女性、ために生きる女性の姿を残さなければならないのです。そのような意味で、お母様は立派なのです。何の不平不満もなく『ええ、そうされなければならないでしょう』と言うのです。そのようにして、それを越えたお母様が立派なのです。」(真の御父母様の生涯路程③ 弁解せずに責任を負ってきた家庭問題)
 
 文先生は、ここで、真のお母様を賞賛しておられます。そのことを否定するつもりは全くありません。ですが、時に、御言に二重の意味や対語を埋め込む文先生ですから、もしかすると、賞賛するということと合わせて、何か大切な内容で、しかも、「はっきりとは教えられない原理」を、間接的に述べておられるということはないでしょうか?

 上の御言の最初の方に、
「別れた中でも今まで夫の役割をしてきたというのです。復帰はそのように難しいのです。」
 とあります。ということは、やはり、このときの聖進様のお母様は、先回、少し触れたように、摂理上「妾」という立場に立っておられたということになるのでしょうか? 「復帰」という言葉も使っておられます。ですから、ここには、先々回の記事の中の「本妻と妾の関係」が暗示されているのでは、と考えたくなってしまいます。
 今の段階では、「正妻と妾の関係による復帰の原則」と言っていいかどうかわかりませんが、文先生のご家庭の中に、そのような原則的な内容の適用があったらしいことは伺えるのではないでしょうか。

 最初の御言の中に、
「神様はそれを収拾するために、『怨讐を愛せよ』ということを発布せざるを得ませんでした」
 という部分があります。この御言について、その前後を含めて改めて提示させて頂きますので、ご確認頂けたらと思います。

「エバは堕落のために何をしたかというと、アダムをだましたのです。それから親です。神様は親です。父子をだましたのです。こういうふうにして、堕落したのだから、こういうふうに落ちていったのだから、それを反対にして上がってこなければなりません。同じものをひっくり返して上がってこなければなりません。分かりましたか? 堕落した正妻の道では、復帰の女、真のお母様が生まれることができないのです。
 転覆して反対に上がるのだから、正妻一人では、二人のことができません。二人が必要です。そして、こういうふうになったのです。(先生が黒板に図を書かれる)こういうふうに降りていく者が、こういうふうにして行くには、これは正妻ではできません。正妻は、それ本妻というのです。本妻としては上がることができないのです。これが妾です。妾、妾です。妾の系統を中心として上がっていくのです。
 だからサタンは、ヤコブの時に、ヤコブは神の選民として帰る代表の家庭です。そのヤコブの家庭によって、堕落したすべてを清算していかなければならないのです。神の血統を考えて見た時、堕落したために生まれたサタンの血統をみな殺してしまうことはできません。殺してしまった場合には、女がなくなるのだから、メシヤという真の父母が生まれる基地がなくなるのです。分かりますか? 残さないわけにはいかないのです。それで女をたくさん持たないといけないのです。それで、妾として、妾の女を連れて神のほうへ戻っていかなければなりません。そうなるというと、妾は本妻の、正妻の怨讐です。地獄にみな同じく入ります。抱き合って転んで、そこに行こうというのです。大変なことです。これをなだめて一つにならなければならないという、復帰された家庭にはそういう内縁があることを知っているのだから、神様はそれを収拾するために、『怨讐を愛せよ』ということを発布せざるを得ませんでした。分かりました? (はい)。 聖書の『怨讐を愛せよ』という話は何かというと、一家においては、兄弟です。レア・ラケルと同じように、姉妹の関係が共に一つの愛の後孫を取り合って戦うようになっているのです。それを一つにしないというと、天国に入れないのです。それで神様は未来の世界を望みながら、こういうような愛の怨讐圏が一家にかかっており、それを収拾しないといけないことを知っている神様は、遠い未来世界に向けて『怨讐を愛せよ』ということを発布、発表せざるを得なかったということです。分かりましたか? (はい)。どんなに難しいことであっても、これを収拾せざるを得ないのが女たちの十字架です。堕落した女が蕩減復帰の道を逆さまに行く、この運命を避けることはできません。こういうような内容です。」
 (女性訪韓修練会のみ言葉 P113)

 3つ目の段落の最後の部分に、
「復帰された家庭にはそういう内縁があることを知っているのだから、神様はそれを収拾するために、『怨讐を愛せよ』ということを発布せざるを得ませんでした。」
 とあります。この「怨讐」とは、
「妾は本妻の、正妻の怨讐です」
 とありますから「妾」のことのようです。
 さらに、「聖書の『怨讐を愛せよ』という話は」と切り出した上で、最後の方に、
「それを収拾しないといけないことを知っている神様は、遠い未来世界に向けて『怨讐を愛せよ』ということを発布、発表せざるを得なかったということです。」
 とあります。この「遠い未来世界に向けて」「未来世界」とは、旧約聖書の時代からみた「未来世界」のようですが、それは一体いつのことを指しているのでしょうか。結果的には「文先生の時代とそのご家庭」ということになっているのではないでしょうか?

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